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2011年5月30日月曜日

薩摩いろは歌 ら

「楽も苦も時すぎぬれば跡もなし世に残る名をただ思ふべし」

「楽しいことや苦しいことも時間がたてば何も残らない。ただ後世に名を残すことを考えよ」

楽しいこと、苦しいことなど、刹那的なことに一喜一憂するのではなく、長いスパンで物事を考え、後世の人たちにも良いと思われることを実行しなさいということを表していると思います。

ここでいう「世に残る名」とは、ただ単に名声を得るために頑張りなさいということを言っているのではなく、後の世の人から見ても正義を貫いた、あるいは誠を尽くしたといわれるように、正しく振る舞いなさいということであります。

とかく人は、目の前の事象にのみ目を奪われがちで、大局的判断を見失うことが多々あります。しかし、もっと高い見地から物事を判断し、長いスパンで考えたときに何が正しいかを判断基準にして、行動することが重要です。

しかし、人間はその時々の楽しいこと、苦しいことで、思考が支配されやすく、容易には将来のことまで思いを馳せることが出来ません。

この歌に書かれていることを実行するためには、常日頃から正しい判断を行えるように訓練する必要があると思います。これもまた、日々の努力が必要です。

2011年5月27日金曜日

薩摩いろは歌 な

 「名を今に残しおきける人も人心も心何かおとらん」

「後世に名を残すような立派人も、同じ人間である。名を残すような立派な人の心も、我々と同じ心である。何か劣っているところがあるであろうか?」

後世に名を残すような立派な人であっても、同じ人間なのです。その心もまた我々と同じ心なのです。同じ人間、心を持つのであれば、努力すれば、同じように立派になれるはずであります。

世の中の立派な人をみると、自分とは全く違う世界の、全く異なる人種のように感じてしまいます。しかし、所詮、人は人なのです。

立派な人も、多くの努力のおかげで立派になったのであり、何もしないで立派になったのではありません。

人は皆、平等なので、立派になるための努力を惜しまず、弛まぬ努力を続ければ、皆立派な人になれるのだということを説いています。

人は立派な人の前では、卑屈になり、自分とは違うと思いがちです。しかし、同じ人なのだから、立派な人の良い所をまね、努力すれば皆立派になれるのです。私も努力を続け、少しでも立派な人に近づきたいと思います。

2011年5月25日水曜日

薩摩いろは歌 ね

「ねがわずば隔てもあらじいつわりの世にまことある伊勢の神垣」

「変なことを願わなければ、分け隔てなく公平に願いは叶えられる。例え偽りの多い世の中であっても伊勢神宮は誠の神様である。」

邪な考えで願い事を祈りをせず、純粋な気持ちで祈り事をすれば、願い事は叶います。偽りの多い世の中であっても、神様仏様は全てをお見通しだからです。

純粋に世のため、他人のためを思って祈る願い事に対しては、神様仏様は公平に願い事をかなえてくれるが、私利私欲に満ち、邪な悪いことを思って祈る願い事には、それ相応の報いがあります。

例え、自分の心の中だけで思っているだけでも、神様仏様は全てを見通せるので、その悪さと同等の報いを与えるでしょう。

人は常に清き正しい気持ちでいることが重要です。美しき心を持った人には良いことが、悪しき心を持った人には悪いことが起きるようになっています。常日頃から清き心を持てるように心掛けたいものです。

2011年5月23日月曜日

薩摩いろは歌 つ

 「つらしとて恨みかへすな我れ人に報ひ報ひてはてしなき世ぞ」

「相手の仕打ちが辛いからと言って、恨み返してはいけない。恨みは恨みを生んで、果てしなく続くことになる。」

相手のひどい仕打ちに対して、恨みで返してはいけません。恨みは新たな恨みを生み、恨みは果てしなく続いていきます。

相手のひどい仕打ちに対しては寛容の心で対処することが重要です。多くの戦争は恨みによる報復合戦により激化していきます。

恨みに対する報復は、恨みでしか返ってきません。どこかでこの負の連鎖を断ち切る必要があります。一度の寛容が、負の連鎖を断ち切ることが出来るのです。

相手はこちらの寛容な態度に対し、態度を軟化させ、対話へと発展できるのです。恨みは恨みしか生みません。寛容で断ち切る必要があるのです。

しかし、実際問題として、これはなかなかできることではありません。世界中の戦争が無くならないのが、その証拠です。

人は他人事だと、他人のひどい仕打ちに対しても寛容になるべきだといいますが、自分に利害が絡むとなかなか寛容になれません。

自分自身の問題であっても、自分をコントロールし、如何に第三者的(客観的)視点で物事を考えられるかがポイントだと思います。

2011年5月20日金曜日

薩摩いろは歌 そ

 「そしるにもふたつあるべし大方は主人のものになるものと知れ」

「臣下が主人に対して悪口を言うのにも、2種類ある。多くの場合主人のためを思って言っているこをわかりなさい。」

主人に対して臣下が悪口を言う場合、主人を思っていう場合と、自分の不平不満から言う場合の2種類があります。しかし、多くの場合、主人を思って言っているのだから、良く聞き入れて自分を反省しなさいと諭しています。

自分の耳が痛い話は、誰しもが聞きたくないものです。ましてや、自分の悪口など聞きたくもないものです。

しかし、部下があえて悪口を言う場合は、多くの場合、主人を思ってのことなので、耳を塞がず、ことの真偽を見極めて対応することが重要です。

臣下の不平不満からでた悪口に対しては、臣下を諌め、主人を思って言った悪口に対しては良く耳を傾けて反省すべきです。

わかっていてもなかなかできないことですが、常に頭の片隅において配慮したい内容です。

2011年5月18日水曜日

薩摩いろは歌 れ

 「礼するは人にするかは人をまたさぐるは人をさぐるものかは」

「人を敬うということは、他人を敬うことだろうか?人を卑しめるということは他人を卑しめることだろうか?」

人に対して礼を尽くすということは、他人に対して礼を尽くすとともに、自分自身に礼を尽くしているのです。また、人を卑しめるような態度は、他人を卑しめているのではなく、自分自身を卑しめているのです。

人に対して礼を尽くすという正しい行いを実践していれば、それは自分自身を正しく導き、自分自身に礼を尽くすことになります。

一方、慢心し、他人を卑しめるような態度をとっていれば、いつかは、巡り巡って自分を卑しめることになるのです。

人は常に、他人に対して礼を尽くし、他人を卑しめるような態度をとってはいけないという戒めです。人を敬い、天を敬い、己を制御することが重要なのだと思います。

2011年5月16日月曜日

薩摩いろは歌 た

「種となる心の水にまかせずば道より外に名も流れまじ」

「悪い噂の種となる私利私欲に塗れた行いをしなければ、悪いうわさも流れないだろう。」

私利私欲に従って悪いことをするから、道を誤り悪いうわさも流れるのです。始めから正しい心で良いことをすれば、悪いうわさなど立つはずがないのです。

悪事千里を走るというように、悪いことをすればそのうわさはあっという間に遠くまで伝わります。しかし、始めから人として正しい行いをしていれば、悪いうわさなど立たないのです。

特に権力を持つ人が政治を行う場合、その行いが私利私欲に立脚していれば、その悪政はすぐにうわさとなってしまいます。

権力者の立ち居振る舞いは、常に人として何が正しいかをベースに潔白でなければなりません。これは、企業が事業を行う場合にも相通じるものがあります。

ただ単にお金を儲けるために事業を行っている企業は、いつかは淘汰されていきます。逆に、常に消費者、お客様のことを考え事業行っている企業は、業績を伸ばし続けていっています。

私の会社まだまだ小さく世の中に大きく貢献することはできませんが、常に世のため人のためという視点で事業を続けていきたいと考えています。

2011年5月13日金曜日

薩摩いろは歌 よ

「善きあしき人の上にて身を磨け友はかがみとなるものぞかし」

「周りの行いの善い人、悪い人を見て、自分の徳を磨きなさい。友は自分の行いの鏡となる。」

とかく人間は自分の行いの善し悪しはわかりにくいものであります。しかし、他人の行いの善し悪しには敏感に反応します。

自分の友人の行いの善し悪しを参考に、自分の行いを見直しなさいとの教えです。まさに他人の振り見て我が振り直せです。

周りの人の悪い振る舞いには、すぐに気付き、腹を立て易いですが、自分が似たような振る舞いをしていることには、なかなか気付かないものです。

周りの不快な振る舞いを見たときには、腹を立てる前に、自分の行動を見直す習慣を作りたいと思います。

逆に、周りの善い行いに感心することはあっても、それを実行するに至らないことも多いと思います。善い行いをみたら、それを参考に、自分自身でも実行するように心掛けたいものです。

2011年5月11日水曜日

薩摩いろは歌 か

「学文はあしたの潮のひるまにもなみのよるこそなほしずかなれ」

「学問は朝も昼も継続して行うべきであるが、静かな夜はなお適している。」

学問は昼夜を問わず、間断なく続けるべきであるが、静かな夜はなお良いとしています。最近では生涯学習という言葉もある通り、人間は死ぬまで毎日が勉強の連続であります。

生涯学ぶべきことは多く、毎日勉強しても勉強しつくすことはありません。とかく人間は怠け心が顔をだし、サボろうサボろうとしてしまいます。

しかし、人間が学ぶべき内容を考えれば、怠ける暇などないはずなのです。昼夜を問わず、勉強に勤しんでも学びきれないことがたくさんあるのです。

このように考えれば、怠け心が頭をもたげてきても、怠け心を抑制して、勉学に励むことができるのであはないでしょうか?

以前にも少し書いたかと思いますが、努力は人を裏切らないといいます。努力したら努力した分だけ、自分にご褒美がもらえます。

学べば学ぶほど充実した人生を送ることができます。勉強し続けることは難しいですが、怠け心を少しでも抑制して勉学に励みたいと思います。

2011年5月9日月曜日

薩摩いろは歌 わ

 「私を捨てて君にし向はねばうらみも起り述懐もあり」

「私を捨てて、君主に仕えなければ、うらみも起こり、不平不満も出る。」

一切の私心を捨てて、君主のために身を捧げるつもりで仕えなければ、君主や組織に対して恨む心や不平不満の心が出てきてしまうのです。

君主のため、組織のためと私心を捨て去れば、全てが公のためであり、皆のために働くので、恨み言や不平不満は出てこないはずであります。

似たような言葉に滅私奉公という言葉があります。私を滅し、公のために身を捧げる、滅私奉公は、この歌と同じ意味です。

何事も、自分自身のためだけに働くと、物事はうまく運びません。自分自身のためではなく、世のため人のために働くと、自然と物事はうまく動き出します。

私を捨てて、公のために働いていれば、いつしか、自分自身も幸せになっているものです。中々難しい行いですが、常に心にとどめておきたい歌です。

2011年5月6日金曜日

薩摩いろは歌 を

 「小車のわが悪業にひかれてやつとむる道をうしと見るらむ」

「自分自身の怠け心など悪い心に押し流されるから、自分の行うべき仕事が辛く感じるのである。」

小人(つまらない人、器の小さい人)が自分の仕事を辛く感じるのは、自分自身の心に原因があるのです。本来は楽しいはずの自分の仕事も、つまらない仕事だと思えばこそ、辛く感じるのです。

本来、どんな小さな仕事であっても、意味があるのです。その仕事を行う人がいなくなれば、周りに困る人がいるのです。

自分の仕事に誇りをもっていれば、たとえどんなにつまらなく見える仕事であっても、やりがいを感じて楽しく仕事をできるのです。

自分の仕事がつまらなく、やりがいのない仕事だと嘆く前に、まずは、目の前の自分の仕事をコツコツと確実に実行していくことが重要なのです。仕事を確実にこなしていけば、いつかは、大きな結果を残すことになります。

目先のことばかりを考えず、長いスパンで将来を見据え、目の前の仕事の意味を考える必要があると思います。

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