スポンサーリンク

2011年10月31日月曜日

客家の教え 手面は...

 「手面は手背を見られず」

手のひらは決して手の甲を見ることはできない。

この言葉の意味するところは、どんなに親しい間柄でも完全に信じ切ってはいけないということです。

客家の教えの根底には、人を完全に信じてはいけないとの思想が見えます。

しかし、これは客家の人々が非常に厳しい環境にいて、一つの失敗が命取りになる危険性が高かったためです。

人を信じることは大事だと思います。

しかし、盲目的に人を信じてはいけないのだと思います。

常に客観視できる自分を持ちなさいということだと思います。

人を信じていても、常に客観的に本当に信じてよいかどうかの検証は必要だということです。

人は変わるものです。

自分の知らないところで、その人がわかるような出来事は十分起こり得るのです。

しかし、人が変わったからと言って、その人ばかりを責めてはいけないと思います。

常にその人のことを客観視する自分がいれば、その人が変わったときに気付くはずです。

この言葉は、「信じても信じ込むな」に相通じるものがあります。

客家の教えを学んでいくと、人生、ビジネスにおいては常にバランス感覚が必要であるとを実感します。

これからも、多くのことを学んでいきたいと思います。

2011年10月28日金曜日

客家の教え 山中に虎無ければ...

 「山中に虎無ければ、犬も王を称す」

自然界では、弱肉強食で強いものが支配しますが、虎のような強者がいないところであれば、犬でも王となることが出来ます。

これはビジネスの基本を述べているとも言えます。

例えば、大企業が支配しているような市場に、何のとりえもない零細企業が参入しても勝ち目はありません。

しかし、大企業がまだ気付いていない市場で勝負すれば独り勝ちが出来る可能性があります。

ベンチャー企業が一躍成長する典型例だと思います。

皆がまだ気付いていない市場をうまく嗅ぎ分け、考えに考え抜いて市場参入することが重要だと思います。

しかし、このような市場に気付くには訓練が必要です。

常日頃から、頭の片隅で考え続ける訓練です。

この訓練を続けていれば、いつか頭の中に素晴らしいアイデアがひらめくのだと思います。

しかし、このひらめきは単なる偶然ではなく、常に新しいことを考え続けていたがためにひらめくのだと思います。

毎日毎日頭を使って考え抜く訓練をしていきたいと思います。

2011年10月26日水曜日

客家の教え 泥の菩薩が...

 「泥の菩薩が河を渡るなり」

ここでいう泥の菩薩とは、自分のことは棚に上げて、人に偉そうなことを言う小人のことです。

つまり、小人が自分のことを棚に上げて、他人に説教したり、偉そうなことを言うと自分の身を滅ぼしてしまうことを戒めています。

世の中には、自分のことは棚に上げて、自分では全くできていないような素晴らしい行いを他人に求める人がいます。

しかし、自分でできていないことを要求されても、他人は聞く耳を持ちません。

他人は偉そうなことをいう人、自分に説教するような人の日頃の行いを見ています。

同時に人は取るに足らない小人のいうことを聞くことはありません。

日頃から自分の行いを律し、他人から尊敬されるような人の意見は、どんなに厳しい意見であっても聞き入れます。

このことは、自分の身近の人に当てはめて考えれば、すぐ理解できると思います。

何にでも首を突っ込んでくるが、自分では何もできない人が、偉そうに説教しても、誰もその人の話は、真剣に聞かないと思います。

しかし、一方で日頃自分が尊敬している人が、自分の意見と異なることを言った場合、一度自分の考えを検証すると思います。

同じことを言っても、言う人によって相手の捉えられ方は大きく変わります。

自分が物を言う場合は、まず自分のことを律してから言うように心掛けたいと思います。

2011年10月24日月曜日

客家の教え 人を迎えられぬ...

 「人を迎えられぬ者は人に迎えられぬ」

人を歓迎できない人は、人から歓迎されないというシンプルな教えです。

人を歓迎するには二つの意味があると思います。

一つは、人を我が家に招くとき、精一杯のおもてなしをするためにお金をかけるという意味です。

少し俗っぽい意味合いですが、人付き合いにおいては結構重要な要因です。

ある意味形から入るタイプですが、お金と手間暇をかけると、招かれた客はそれを感じ取ります。

逆に招かれた客が、自分を招待するときに同様な歓迎をしてくれることになります。

このような関係を続けていると、いつしか信頼関係も築かれていくものです。

もう一つの意味は、心の扉を開くという意味です。

客家の人々は、周りに敵が多かったため、人を簡単には信用しなかったといわれています。

下手に人を信じ込むと、自分の身を滅ぼす危険性があったためです。

しかし、一度信用を得ると家族以上の信頼関係を築けるそうです。

逆の意味で、このような信頼関係を築けるほどの歓迎をしないと、自分も信頼されないということになります。

この意味では、人を信じられぬ者は、人に信じられぬと読み替えることが出来ると思います。

2011年10月21日金曜日

客家の教え 苦労して稼ぎ...

 「苦労して稼ぎ、楽しく金を使う」

稼ぐときは一杯苦労した方が良いと思います。

苦労して稼ぐことで、稼いだお金の使い道を真剣に考えると思います。

自分で苦労して稼いだお金を無駄に使う人は少ないと思います。

しかし泡銭のように、楽して稼いだお金は無頓着に使ってしまうことが多々あるともいます。

お金の有難味は稼ぐときの苦労の大きさで感じるのではないでしょうか?

一方で、お金を使うときは楽しく使うことが肝要です。

生活していく上でお金は必ず使いますが、使い方が重要です。

同じお金を使うにしても楽しんで使うことにより、感じる幸福感が全く異なると思います。

お金は貯めるためにあるのではないと思います。

お金は使うためにあるのだと思います。

お金を貯めるのも、最終的には使うために貯めるのです。

お金は世の中を回ることにより機能します。

このため、お金は使うときに楽しむことが重要です。

お金を使うときに楽しみ、幸福感を味わうことでまた働く元気が出てくると思います。

お金がもったいなくて、いやいや使っていたら、この幸福感は味わえないと思います。

苦労して稼ぎ、楽しく金を使うとは、味わい深い言葉だと思います。

2011年10月19日水曜日

客家の教え 山には真っすぐな...

 「山には真っすぐな木はない、世の中には真っすぐな人はいない」

山に生える木に真っすぐな木がないように、世の中に欠点や弱点を持たない人はいない。他人を見るときは、この点を考慮して温かい目で見なければならない。」

とかく人は、他人の長所には寛容ですが、他人の短所には厳しい視線を向けます。

つまり、他人の長所は当たり前と受け止め、他人の短所は我慢できない傾向にあります。

しかし、他人には必ず、良い所と悪い所があります。

私の考えでは、悪い所より良い所を多く持つ人が良い人、良い所より悪い所を多く持つ人が悪い人思われているのだと思います。

逆の見方をすると、どんなに良い人でも必ず悪い所を持っているし、どんなに悪い人であっても必ず何かしら良い所を持っているのです。

日頃良い人だと思っていた人がふとした拍子に悪い一面を見せると、その人がすごく悪い人に感じるときがあります。

しかし、冷静に考えれば、その人の悪い一面はその人の中のわずかな部分なのです。

そのわずかな部分を強調して考え、その人自体が悪い人だと考えるのは間違いだと思います。

人には必ず欠点、弱点があるという前提で、できるだけその人の良い所を見てあげることが円滑な人間関係を築く上で重要だと思います。

言うは易く行うは難しの代表例ではありますが...

2011年10月17日月曜日

客家の教え うまい利益...

「うまい利益を得たところには二度と行くな」

日本でいうところの「柳の下の二匹目のドジョウをねらう」ようなことはしてはいけないということです。

たまたま柳の下でドジョウを捕まえた人がいても、二匹目のドジョウが柳の下にいるとは限りません。

また、事業において大成功したとしても、いつまでもその成功にしがみついていては、いつかは失敗することになります。

事業の一番難しい所は、成長し続けなければならないということです。

成長し続けるためには、一度大成功したとしても、その成功の後の次の成功を考えていなければならないということです。

特に一度大きなヒット商品が生まれると、次はそれ以上のヒット商品を生まなければ、成長し続けることが難しくなります。

一発屋で終わるのは、一回の大成功にしがみつき、次のヒットを生み出す努力を怠るためだと思います。

事業において成長し続けるには、大きな成功を一つ達成するよりも、小さな成功を積み重ねていくことだと思います。

まずは、一歩一歩着実に成長できるように頑張っていきたいと思います。

2011年10月14日金曜日

客家の教え 百聞は一見に...

「百聞は一見にしかず、されど百見は一行にしかず」

「百聞は一見にしかず」という言葉は良く耳にすると思いますが、これには続きがあり、「されど百見は一行にしかず」と続きます。

百回聞くよりも一回見た方がわかりやすい、でも百回見るよりも一度自分で行ってみた方が、もっとわかりやすいということです。

例えば、あなたがこれまでに知らない新たなスポーツについて、他人から話を聞くよりも、実際にそのスポーツをしているところを見た方が理解し易いでしょう。

さらにそのスポーツを見ているよりも、実際にそのスポーツを実践してみた方が、もっとそのスポーツについて理解することが出来るでしょう。

事業においても同様のことが言えます。現代はインターネットが普及し、情報は溢れるほどあります。この情報を集めるだけでは実際の事業は行えません。

実際に実践してこそ、事業の神髄は理解できると思います。起業する前は、どうしても耳年増になりがちです。

もちろん、事前の調査は重要で、いきなり実践するのは無謀です。しかし、調査ばかりしていても、事業が進まないことも事実です。

事前調査である程度の目処が立ったら、実践して事業を進める過程で修正していくことも重要だと思います。最近実践することの重要性を感じている今日この頃です。

2011年10月12日水曜日

客家の教え 口添えしても...

 「口添えしても金添えするな」

知り合いが困ったとき色々アドバイスするのは良いですが、お金を出してはなりません。アドバイスの言葉やお金には力があります。

しかし、言葉とお金の力は異なるものです。時にお金は人を悪魔に変えることがあります。お金とは、それほど強い力を持ったもので使い方を誤るととんでもないことになります。

例えば、お金に困ってあなたのところに知人が相談に来ても、あなたがお金を出して解決することはほとんどありません。多くの場合、問題を大きくしてしまうだけです。

基本的にお金の問題は、当事者本人が解決しない限り終わることはないのです。そのため、相談者にはお金を出すのではなく、当事者本人が解決するための方法を一緒に考え、アドバイスすることが重要なのです。

極稀に、お金を出してあげることで問題が解決することもあります。しかし、この場合でも、本当に自分はお金を出してあげるべきか熟慮する必要があります。この判断は簡単ではありません。

まずは、相談者にはアドバイスを与え、状況を見守ることが無難だと思います。お金は天使にも悪魔にもなりますが、一度悪魔の姿を見せると痛い目に遭うということを肝に銘じておきたいと思います。

2011年10月7日金曜日

客家の教え 信じても...

 「信じても信じ込むな」

この教えは奥深い教えだと思います。人生や事業において信頼関係は非常に重要な要因です。信頼関係なしに人生や事業は行えません。

相手を信じるから重要な話もできますし、自分のことも話せるのだと思います。信用できない相手には決して重要な話はしませんし、自分の身の上話はしません。

信頼し合える関係を築き上げることが出来れば、これ程結束の固いものはないといえるでしょう。しかし、信頼関係は永遠ではないとも言えます。

一度築いた信頼関係がほんの些細なことで壊れることもあるのです。結束が固かった信頼関係ほど、一度壊れると修復が困難になります。

「信じても信じ込むな」には、盲目的に相手を信用してはいけないということを示唆しているのだと思います。本当に相手を信用できなければ人生辛いと思います。

しかし世の中には人を信じて疑わない人もいます。自分が騙されていても、騙されていると自覚できず、周りの人のアドバイスも聞かないタイプの人です。

このような状況が「信じ込む」だと思います。こうならないためには、常に客観的にもの見る目を養う必要があります。

一度築いた信頼関係も、時には客観的に信用できるかを見直す必要があります。一見使用できる人も、別の観点でみると信用できない人に見えることがあります。

本当に信用できる人は、自分が本当に困ったときに助けになってくれる人です。自分が本当に困ったときに自分を助けてくれる人か、自分から離れていく人かが一つの判断材料になるのではないでしょうか?

「信じても信じ込むな」はまさにバランスの問題だと思います。バランス感覚の優れた人間になりたいです。

2011年10月5日水曜日

客家の教え 右隣の人に...

 「右隣の人に助けられたら、今度は左隣の人を助けよ」

人間社会は持ちつ持たれつの関係で成り立ち、困ったときにはお互い助け合うことが重要ですが、見返りを求めてはいけないということです。

上の言葉は相互扶助の考えに則り、しかも各人が見返りを求めない奉仕の気持ちでお互いを助ける仕組みを構築しています。

ある人に自分が助けられたら、助けられた人にお礼をするのではなく、他の困った人を助けなさいという教えです。

非常に優れた教えだと思います。この考え方を実践すれば善意の輪が指数的に広がっていくことになります。

我々は、つい助けてもらった人に感謝の気持ちを表し、お礼をしたがります。ある意味当然の考え方、行為でありますが、客家教えはその一歩先を行っているといえると思います。

これまで、自分自身も多くの人に助けられてきました。いつかは、自分自身が多くの人を助けられるような人間になりたいと思います。

2011年10月3日月曜日

客家の教え 教育こそが...

 「教育こそが最大の貢献」

人を育てるということは非常に大事なことですが、人を育てるということは、自分がそれなりに成果を残した人が行うことだと思います。

人を育てることを生業とする人以外は、まず自分がことを為す必要があると思います。人を教育する場合、教える人の権威付が重要になります。

大事を為した人の話は重みがあり、有難味もありますが、口だけの人の言うことは心には響きません。

一方、世の中には人生や事業で大成功を収めた人がいます。そのような人は、次世代の人材を教育する義務があるのではないでしょうか?

自分の成功は自分のためだけに使うのではなく、他人のためにも使うべきだと思います。この点で教育こそが最大の貢献と言えるのではないでしょうか?

今は小さなことをコツコツ積み上げていますが、いつか大輪の花を咲かせて、自分も人を育てる義務を負えるようになりたいと思います。

スポンサーリンク