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2011年6月29日水曜日

薩摩いろは歌 て

「敵となる人こそはわが師匠ぞとおもひかえして身をもたしなめ」

「敵であっても、反面教師として自分の先生になるものである。反面教師の行いをみて、自分のふるまいを見直しなさい。」

憎い敵であっても、見方を変えれば立派な反面教師になります。他人の振り見て我が振り直せとも言うとおり、常に自分の振る舞いが正しいか顧みるようにすべきです。

戦っている敵であっても、人は人です。自分がされたくないことを、相手の敵にすることが本当に必要かということまで、考えたうえで行動すべきです。

人は常に人として何が正しいかを判断基準に行動すべきで、一時の感情に押し流されて行動すると、判断を誤ってしまいます。

また、情けは他人のためならずともいいます。他人にかけた情けは、巡り巡って、最終的には自分に返ってきます。

常に人として正しい振る舞いをしていれば、返ってくる情けも人の道から離れたことはないでしょう。しかし、一時の感情で誤った判断で行動すると、いつかはわが身に同様の振る舞いがなされることになります。

人は自分一人の時でも、常に人として何が正しいかを判断基準に振る舞う必要があることを肝に銘じて頑張りたいと思います。

2011年6月27日月曜日

薩摩いろは歌 え

「回向には人と我とをへだつなよ看経はよししてもせずとも」

「死者の供養は敵味方をわけ隔てるな。読経はしても、しなくても良い。」

回向(えこう)とは、死者の仏事供養を行うことです。また、看経(かんきん)は読経、つまりお経を読むことです。

ここでは、戦いで亡くなった兵士の供養は、敵味方の分け隔てなく、きちんと行いなさいと言っています。そのとき、読経するしないは問題ではありません。

死者に対しては、敵も味方も、尊い命が奪われたのだから、敬意をもって、仏事を行うのが、生き残った者の勤めであることを説いています。

戦いにおいては、意見の違いにより殺し合いをしても、死んでしまえば敵も味方もなく、同じ人の死として尊く弔う必要があります。

同様に、お互い戦った者同士でも、戦いが終われば同じ人間同士なのだから、理解しあえるはずであります。

世界では、今でも内戦や、テロが多発しています。戦争は、お互い大義名分のもとに行っています。双方が自分の正当性を主張しあいます。

そして、戦争という暴力のもとに人の尊い命が失われていくのです。戦争で家族を失った人は、敵を恨み、復讐をします。復讐されて家族を失った人は、また敵を恨み復讐し、負の連鎖が続きます。

結局戦争や復讐は、人を悲しませることにはなっても、問題を解決する手段にはならないのです。人は、皆頭の中では、それを理解しているのですが、いざ、身内を殺されると、とても冷静ではいられなくなるのだと思います。

でも、誰かがこの連鎖を断ち切れば、世界の平和は必ず訪れるのだと思います。その誰かは、現在争いをしている人の中に必ずいるはずです。そして、近い将来世界に平和を訪れると信じたいです。

2011年6月24日金曜日

薩摩いろは歌 こ

「心こそ軍する身の命なれそろゆれば生き揃はねば死す」

「戦いにおいては、兵士の心が勝敗を決する。皆の心が揃えば勝ち、生き残れるが、揃わなければ負けて、命を失うことになる。」

戦いにおいては、全員が心を一つにし、考え方を揃えることが重要であります。例えば、大きな岩を動かす時に、皆が同じ方向に力を加えれば、大きな力となり、岩を動かすことができます。

しかし、皆がばらばらの方向に力を加えれば、力は分散するとともに、場合によっては相殺され、全体としては、小さな力しか加わらず、岩を動かすことはできないでしょう。

同様に、心も同じで、一つの目標に向かって、全員の心が揃えば大きな力となり、大事を成し遂げることが出来ます。

しかし、一人一人が自分の利益だけを考え、ばらばらの考えを持って事に当たれば、その仕事は決してうまくいきません。

もっとも顕著な例がスポーツだと思います。野球やサッカーなどのチームプレーでは、選手一人一人が、共通の目標を持ち、一心不乱に練習を重ねるチームは良い結果を残せますが、自分のことを中心に考える選手の集まりは、いくら個人的に高い能力を持っていても、途中で挫折してしまいます。

大きなことを成し遂げるためには、一人の力ではできませんが、多くの人を集めただけでも成し遂げることはできません。

多くの有志を集めたうえで、皆の考え方を揃え、統一することが重要なのです。いつか、従業員を雇えるようになったときは、このことを肝に銘じて頑張っていきたいと思います。

2011年6月22日水曜日

薩摩いろは歌 ふ

「無勢とて敵をあなどることなかれ多勢を見ても恐るべからず」

「敵の人数が少ないからと言って、侮ってはいけない。また、敵の人数が多いからと言って恐れる必要はない。」

勝負の行方は、敵の人数の多い少ないで決まるのではありません。勝負は、自分たちの気の持ち方や、日頃の鍛錬など、自分たちの要素で決まるのです。

ですから、敵の人数が少ないからと言って侮れば、勝負に負けることもあるでしょうし、敵の人数が多いからと言って、恐れることなく、一致団結し、気勢を上げて戦えば十分勝機はあるのです。

この歌では、勝負時の心得を端的に表しています。前半の「無勢とて敵をあなどることなかれ」では、勝負における油断が結果に大きな影響を与えることを教えています。

勝負の世界では、偶然の勝利はあっても、偶然の敗北はないといわれます。運よく勝つことはあっても、運が悪く負けることはないのです。敗北には必ず原因があるという考え方です。

たとえば、奇跡的な事象で敗北を喫した場合、あれはしょうがないと考えがちですが、実際には、その奇跡的事象を引き起こしていたのは、自分たちなのです。

このように、敗北の原因を他人のせいにするのではなく、自分たちの中に見つけることで、反省し、改善することにより、自分たちは強くなっていくのです。

同様に、大人数の敵のように強敵と対峙すると、勝てる気がせず、気持ちの上ですでに負けてしまうことがあります。

しかし、気持ちの上で負けていると、勝負に勝つことは、まずありません。強敵を目の前にしても、相手の弱点を観察し、戦略を練って、一致団結して戦えば勝機は必ずあるのです。

勝負の結果は、相手によるのではなく、自分の中に原因あるのだということを肝に銘じたいと思います。

2011年6月20日月曜日

薩摩いろは歌 け

「賢不肖もちひ捨つるといふ人も必ずならば殊勝なるべし」

「賢者を用いて、愚者の首を切るという人も、必ずそうしているなら、誠に素晴らしいことである。しかし、実際にはそのようにうまくいくものではない。」

優れた人を登用し、役に立たない人の首を切っていけるのであれば、仕事は常にうまくいくでしょう。しかし、実際にはそのようにうまくいくことばかりではありません。

まさに言うは易く行うは難しです。人事に関しては、適材適所が理想であり、ある分野では役に立たない人でも、ある分野では優れた才能を発揮することは良くあることです。

各個人の才能を見極めて、その才能を生かせる部署に配置することもリーダーの役目の一つです。

しかしながら、全く役に立たない人がいます。それは、才能のない人ではありません。人は何かしら才能があるものです。では、どのような人が役に立たないのか?

一言でいうと、やる気のない人です。やる気のない人向上心のない人は、仕事ができないばかりではなく、周りへも影響を与えることが多々あります。

このような人は、辞めてもらいたいのですが、実際にはなかなか辞めてもらえません。自分の仕事や地位にしがみついて、自分を守ることにはやる気満々だったりします。

人を見極めるということは大変難しく、また、人は時間とともに、あるいは環境とともに変化していくので、この変化を見逃さないことも大事です。

このように書いてきたものの、頭では分かっていても、実際に行動に移すのはエネルギーがいるものです。肝に銘じたいと思います。

2011年6月17日金曜日

薩摩いろは歌 ま

「万能も一心とあり事ふるに身ばしたのむな思案堪忍」

「万能一心とあるように、自分の能力の高さを驕り高ぶってはいけない。常に思いを巡らせ、耐え忍ぶことが重要である。」

あらゆる能力に長けて万能であっても、その心根が悪ければ意味がありません。さらに言うと、能力が高く、心根が悪ければ、逆に悪の大きさが大きくなってしまうこともあります。

能力が高い人は、自分の能力を鼻にかけて傲慢になるのではなく、常に思慮深く考え、耐え忍ぶ態度が必要であります。

能力が高く、謙虚で人の話に耳を傾け、常に努力を怠らない人は、周りの協力も得られた上で、さらに大きな仕事ができるようになるのです。

得てして人は、能力が高まってくると、他人を見下し、自分が偉くなったような錯覚に陥ります。しかし、自分の能力が高くなっても、人としては何も変わらないのです。

ここで勘違いをすると、周りの人の協力が得られなくなり、仕事がうまく回らなくなってきてしまいます。

自分の能力を高めると同時に、自分の心も高めなければ、仕事はうまく回らないのです。

また、能力の高い人が悪いことを考えると、その悪さはとてつもなく大きな悪になってしまいます。世の中の犯罪ニュースを聞いていると、それだけ優秀なら、もっと世のため人のために使えば、自分も幸せになれただろうにと思うようなことがたくさんあります。

自分が努力して手に入れた高い能力ではありますが、その高い能力は世のため人のために使用してこそ、価値ある能力だと思います。心に留めておきたいことです。

2011年6月15日水曜日

薩摩いろは歌 や

「やわらぐと怒るをいわば弓と筆鳥と二つのつばさとを知れ」

「やわらぐ(優しさ)と怒る(厳しさ)を例えるなら、弓(武)と筆(文)のようなものである。いずれも、鳥の翼が二つあるように、欠くことのできないものである。」

ここでは、人としてのバランス感覚の重要性を述べていると思います。人にとって、優しさと厳しさを併せ持つことは重要であります。いずれか、片方だけではうまくいかないのです。

同じように、文武両道も重要であります。勉強ばかりで運動が出来なければ、バランスを欠きます。同様に運動だけできて、勉強ができないのも大成しません。

これらのものは、鳥の翼や車の両輪のように、二つあって役に立つものです。確かに一芸に秀でることで、運動だけ、勉強だけで大成する人もいます。

しかし、これは結果論です。人は、勉強ができて運動ができないのなら、運動も頑張るべきです。逆に運動だけできて、勉強ができない人は勉強も頑張るべきです。その過程で気付くことが多くあります。

多くの成功者は、両方を兼ね備えています。スポーツ選手で頭も良い人は、長期間にわたり活躍します。しかし、頭の回転があまり良いといえない選手は、短期間で活躍の場がなくなることが多いです。

逆に、学者などの中には、頭が良いのはわかるが、周りが見えていないために、周囲の賛同を得られない人が多くいます。

頭がよく、運動もできる人は、スポーツの中で周囲を見る目を養っているために、周囲の状況を理解して、周囲に合わせて説明します。

このような人は、周囲からの賛同を得やすく、物事がスムーズに進むことが多いです。いわゆるバランス感覚に長けた人です。

世の中で成功する人は、優しさと厳しさ、文武、大胆さと緻密さ、決断の速さと熟考などのように、一見相反するようなことを併せ持っています。

表があれば、必ず裏があるように、物事の表裏を理解して、バランス感覚に優れた人を目指したいと思います。

2011年6月13日月曜日

薩摩いろは歌 く

「苦しくとすぐ道を行け九曲折の末は鞍馬のさかさまの世ぞ」

「苦しくても、真直ぐ正道を進みなさい。困難を避けて九十九折のように進んでいては、暗黒に真っ逆様に落ちていくようなものだ。」

どんなに苦しくても、常に正道を進むことが重要です。困難を避け続けたり、曲がったことを行えば、その先には暗黒に落ちてしまいます。

人は、困難に遭うと、始めは立ち向かおうとするのですが、大きな困難で容易に解決できないと、回避しようとしたり、邪道な方法で解決することを考え始めます。

困難を回避したり、邪道な方法で困難を解決すると、その場は何とかなったような気がしますが、根本的な解決には到りません。

そして、回避し続けたり、邪道な方法を使い続けていると、全く身動きが取れなくなるような、さらなる困難に襲われてしまうのです。

こうなると、解決は本当に困難になります。初めの困難に遭遇したとき、正道を突き進んでいけば、困難は必ず解決できるのです。

人間は弱いものです。ちょっと油断すると易きに流れてしまいます。常日頃から、正道を貫くことを意識することが重要だと思います。

常に正しい心を持ち続ける努力をしていきたいと思います。

2011年6月10日金曜日

薩摩いろは歌 お

「思ほへず違ふものなり身の上の欲をはなれて義を守れひと」

「人は思わず道を間違えるものである。私利私欲を捨てて、正義を守りなさい。」

人は知らず知らずのうちに、人を道を外れてしまうことがあります。その大きな原因は、私利私欲のために動いてしまったことがきっかけです。

私利私欲は人の道を踏み外すもとになります。欲を離れて、常に正義を守ることを心がけていれば、人としての道を踏み外すこともないでしょう。

人は大きな決断をする際に、無意識のうちに自分のためになるように決断しまいがちであります。しかし、自分のために決断し、為したことは周囲の人の賛同も得られません。

正義とは、世のため人のためにをベースに決断することといえるのではないでしょうか?常に他人を思いやり、世の中の役に立つことを基本に行動していれば、周囲の賛同を得ることは難しくありません。

周囲の賛同を得られれば、事は成ったも同然です。つまり、世のため、他人のためという、正義を守って行動すれば、周囲の人の賛同も得られて、物事はうまく運ぶということを端的に表していると思います。

自分のためを思って行ったことは、結果的に自分のためにはならず、他人のこと、世の中のことを思って行ったことは、結果的に自分のためにもなるのだと思います。常に正義を心にとどめておきたいと思います。

2011年6月8日水曜日

薩摩いろは歌 の

 「のがるまじ所をかねて思いきれ時に到りて涼しかるべし」

「逃れられないような切羽詰まった状況を、日頃より想定して、良く考えておきなさい。そうしておけば、そのような状況が訪れたとしても、慌てふためくようなことにはならない。」

常日頃より、どうにもならないような状況を想定して準備おけば、実際に切羽詰まったような切迫した状況に陥ったとしてもあわてず行動できることを諭しています。

まさに備えあれば憂いなしです。人は自分では考えてもいなかったことに出くわすと、思考が完全に止まって、頭も体も止まってしまうことがあります。

しかし、どんなにひどい状況に陥ったとしても、事前に想定し、準備しておけば、即座に対応し、状況に合わせた行動を起こすことが出来ます。

今回の東日本大震災における原子力発電所の事故も、想定を超えたことが起こり、対応策が準備できていなかったために、対応が後手後手に回り、被害を収束できていないと考えることもできます。

事前に万全の準備するためには、如何に正確に将来の事象を予測できるかにかかってきます。これは、非常に困難なことです。

しかし、難しいけどやらなければならないことといえます。今回の事故を教訓に、予想される事象は常に最悪のケースを想定して準備する必要があるということです。

今回の地震で、やりすぎるということはないということがわかりました。しかし、その準備は、合理的でなければなりません。

100年に一度の大災害に対しても準備は必要ですが、100年に一度の災害が毎年来るかもしれないとの想定で準備していたのでは、何もできなくなります。

やはりバランス感覚というものが必要です。100年に一度の災害に備えながら、どのようにして日頃生活できるかを考える必要があります。

言葉でいうのは簡単ですが、実行するのが難しいこのことを、常に頭に入れて行動していきたいと思います。

2011年6月6日月曜日

薩摩いろは歌 ゐ

「亥にふして寅には起くとゆふ露の身をいたづらにあらせじがため」

「亥の刻(午後10時頃)に床について、寅の刻(午前4時頃)に起きるのは、夕露のように儚いこの身を無駄にしないためである。」

朝早くに起きて、夜遅くまで起きて、自分の勤めをしっかり果たしなさいということを表しています。人は、早朝から夜遅くまで勤勉に働くことが重要です。

人は、日々のたゆまぬ勤労によって成長し、また、大きな成果を上げることが出来るのです。無駄に夜更かしをしたり、朝寝坊で時間を無駄に費やすことは、自分のためにも、周りの人のためにもなりません。

最近は、それほどでもなくなりましたが、一時期、日本国内においても、欧米のように、労働時間を短縮して、自分の時間を楽しもうとの風潮が高まりました。

高度経済成長期の、一心不乱に働き、国のため、家族のため、身を粉にして働くことが格好悪く、個人を重視し、個人の時間を確保しようとする風潮でした。

しかし、結果として、そのような風潮は日本の国力を落とし、国際競争力を低下することとなってしましました。

多くの人は、人生の中で働いている時間が一番長いといえます。その仕事に生きがいを見つけ、一心不乱に働くことは、自分のため、家族のため、国のためを含め、周りまで良い影響を与えるのです。

逆に言うと、一心不乱に集中できる仕事を見つけられた人は幸せだと思います。自分のため、周りの人たちのため、一生懸命働きたいと思います。

2011年6月3日金曜日

薩摩いろは歌 う

 「憂かりける今の身こそはさきの世のおもえばいまぞ後の世ならむ」

「周囲の人がつれなく対応するのは、前世の行いの報いである。後世の姿は現世の行いの報いである。」

現在の、周囲のつれないそぶりは、前世での行いが悪かったからであります。後世にどのような待遇にあるかは、今現在の現世の行いで決まります。

世の中は、常に因果応報のもとで動いています。善い行いをすれば、善い結果が得られ、悪い行いをすれば、悪い結果が得られます。

将来、自分に善い結果をもたらしたいと思うのであれば、今現在を真面目に清く正しく過ごしなさい。そうすれば、将来の自分に善い結果が得られるはずです。

因果応報は仏教の思想ですが、結果には必ず原因があり、結果は全て原因によるものであるとの考え方です。

この考え方に則れば、善い行いをした人には善い結果が、悪い行いをした人には悪い結果がもたらされるというものです。

この考え方は本当でしょうか?短いスパンで考えると、必ずしもこのようにはなっていないようですが、長いスパンで考えると、この考えは正しいといえるようです。

人間の寿命は、高々100年程度ですが、200年、300年という長いスパンで考えると、必ず善い行いをした人には善い結果が、悪い行いをした人には悪い結果がもたらされるそうです。

この歌の中でも、前世、現世、後世という、長いスパンで考えられています。後世を善く過ごすために、現世では清く正しく生きていきたいと思います。

2011年6月1日水曜日

薩摩いろは歌 む

「昔より道ならずしておごる身の天のせめにしあはざるはなし」

「昔から人としての道を踏み外し、おごり高ぶった人に天罰が下らないことはない。」

昔から、人としての正道を踏み外し、おごり高ぶった態度をとるような人に対しては、必ず天罰が下ってきていました。

人は一度成功を収め、富や名声を手に入れるとおごり高ぶった態度をとってしまいがちです。しかし、神様仏様はそのような態度を見過ごすことなく、天罰を加え、おごり高ぶった人を諭します。

人間はどんなに偉くなっても、成功しても謙虚さを忘れてはいけません。謙虚さを忘れた途端、物事はうまくいかなくなってしまいます。

一度成功し、偉くなっても謙虚さを失わず、継続して努力を続けるものに神様仏様は手を貸し、成功を継続させてくれるのです。

人間としての正道を踏み外し、おごり高ぶれば必ず失敗が訪れるから、成功し富や名声を手に入れても謙虚さを失わずに研鑽しなさいということを端的に表しています。

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