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2011年12月28日水曜日

歳末御礼

今年も残すところ後僅かとなりました。

本年4月に会社を立ち上げて、あっという間の一年でした。

事業は思い通りにはいかず、まだ赤字会社ではありますが、徐々に業績は上がってきています。

今期中には単月黒字化し、来期以降は業績を大きく伸ばしていく所存でございます。

本ブログでは、私が起業した際や、経営判断をする際に参考にした、薩摩(島津日新斎)いろは歌や客家の教え、孫子の兵法を紹介してきました。

まだまだ未熟な経営者であるため、これらの教えを十分に生かし切れていませんが、大変参考になる教えばかりです。

私は、企業は世のため人のために貢献してその対価として報酬をもらうものだと考えています。

多くの人のために働けば、いつか大きな報酬も得られると思います。

来年も一層頑張ってまいりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

今年一年大変お世話になりました。

皆様も良いお年をお迎えください。

2011年12月26日月曜日

孫子 短期決戦

孫子においては、戦争は短期決戦が良く長期戦は推奨しません。

なぜなら、長期戦になれば、兵士たちの士気を低下させ、自国の軍力を疲弊させることになるからです。

城攻めのような長期戦はその最たるものであります。

また、城攻めでなくてもただ戦略もなく、相手国を攻めることなく、ただ待たせておけば、兵の士気が落ちるだけでなく、兵力の低下を招いてしまいます。

昔から戦争において、短期決戦で成功した者はいても長期戦で成功したものはいないといいます。

なぜなら、長期戦で勝利を収めても、兵力の低下した国は戦国時代の他の国に攻められ滅ぼされることになるからです。

これをビジネスに置き換えて考えると、新規事業に参入するときは短期決戦が好ましいということになります。

万が一うまくいかないときは一度撤退して仕切りなおす方が得策と考えられます。

成功に固執して長期戦になった場合、自社の体力を大きく消耗し、立ち直れないところまで消耗する危険性があるからです。

戦争や新規事業参入において撤退といる決断は一番難しい決断ですが、大将、経営者はその決断ができる人でなければ成功しないということだと思います。

事前の分析をしっかり行い、短期決戦で勝負をするのが孫子の兵法だと思います。

2011年12月21日水曜日

孫子 戦争費用

孫子では、戦争には莫大な費用が掛かることを力説しています。

この莫大な費用が掛かることを認識して戦争を行わないと、戦争に勝ったとしても国としての体力を消耗し、他の国に攻め入られる可能性があるからです。

つまり、戦争を行うことは非常にリスクの高いことであることを、ここでも説いています。

戦争は総合的戦力で勝負が決することは書いてきましたが、戦争は一度で終わるわけはなく、戦国時代には、一つの戦争が終了すると、他国が戦力の低下した国を攻めてくるのです。

このように、戦争を行うには先の先まで読む必要があります。

これをビジネスに当てはめて考えると、新規事業で市場に打って出る際は莫大な費用が掛かるということです。

社運を賭けた新規事業では、勝負に負けると体制を立て直すこともできないでしょうし、たとえ成功しても、会社の体力は消耗しているので、次の新規事業に打って出るには相当期間が必要となります。

この間、成功した新規事業で社員を養っていかなければなりません。

このようなことまで考えたうえで、新規事業に打って出る必要があるのです。

会社の将来を考えると、新規事業で発展させていくことは必須かもしれませんが、勝負の仕方はよくよく考えないと失敗に終わり、会社滅亡の危機を迎えてしまう可能性がるのです。

自分の懐事情、将来の見極め等、経営者は多くのことを頭に入れて考える必要があります。

2011年12月19日月曜日

孫子 勝算

孫子においては、開戦前の総合戦力の比較検討が重要であると述べていることは前述した通りであります。

孫子においては、五事・七計で自国と相手国の総合戦力を比較検討すれば、開戦前に勝負がわかるというのです。

戦争で勝つには、開戦前の事前検討で、勝算があることが必須です。

五事・七計に照らし合わせて、勝算が十分あるなら、戦争には勝てます。

勝算が相手国より多ければ勝てる可能性が高いでしょう。

しかし、勝算がないなら戦争に勝てるわけはないというのです。

このような勝算のない戦争は絶対に行ってはいけないと説いています。

孫子の内容は非常に合理的です。

事前の戦力分析で勝算が十分あれば勝てるし、なければ負ける、だから勝算のない戦争はしてはいけません。

極稀に勝算のない時でも勝利を手にすることがあると思います。

奇跡的勝利というものです。

しかし、戦争を開始するのに奇跡を待っているようでは、勝利は覚束ないと思います。

スポーツの世界でも、実力差が明白で強者が勝つと思っていても、弱者が勝つときがありますが、これは何百試合に1回程度のことで、多くの場合は、順当に強者が勝つと思います。

ビジネスの世界においても、事前分析が非常で重要です。

孫子に書かれている通り、五事・七計に照らし合わせて、自社の戦力分析と市場の動向調査をしっかり行い、勝算があれば事業に成功するし、勝算がなければ事業に失敗するということであります。

勝算のない新規事業参入は間違った戦略であるといえます。

では事前の戦略分析とは何をすれば良いのでしょうか?

実はこれが経営者の能力が一番問われるところで、各社経営陣は、このことを考え続けているのだと思います。

事前分析の手法は各社異なりますが、基本が五事・七計に照らし合わせて、比較検討することだと思います。

私自身まだまだ駆け出しの経営者なので、この部分が理解しきれていないと感じています。

もっともっと勉強して、的確な判断ができるようになりたいと思います。

2011年12月16日金曜日

孫子 詭道

孫子においては、戦争は騙し合いだとされています。

本当はできるのに、できないふりをする。

本当は有用なのに、不用なふりをする。

本当は近くまで来ているのに、まだ遠くにいるふりをする。

本当はまだ遠くにいるのに、近くにいるふりをする。

相手が有利な振りをして、誘い出す。

相手をかき乱して、取り入る。

相手が充実していたら、待機して様子をみる。

相手が強大であれば、戦争を回避する。

相手が怒っていたら、これを利用して乱す。

相手が謙虚で冷静であれば、挑発する。

相手の休養が十分であれば、疲弊させるようにする。

相手の団結力が強ければ、団結力を乱すようにする。

相手が無防備であれば攻め入る。

相手が予想していない場所を攻撃する。

このように相手を騙すことが戦争に勝利する秘訣だとされています。

確かに開発競争などを行っているときに、競争相手を上のようにして騙し、自社が優れた技術を開発することもあるでしょう。

しかし、ビジネスにおいて、上記の内容を間違って解釈すると、大きな失敗をすることになると思います。

ビジネスにおいて戦う相手は競合他社ではなく、市場だということです。

孫子の兵法をビジネスにおいて応用する場合は、市場の予想していない場所を攻撃したり、競合他社がおらず、ぽっかり空いた市場に攻め入ったり、市場の欲求を刺激するような手法をとったりすることが重要だと思います。

孫子の兵は詭道なりとは、競合他社を騙すのではなく、市場が予想していなかった奇抜なアイデアを生み出すことではないでしょうか?

市場にはまだ発見されていない分野がたくさんあるのに、企業はそれに気づかない場合が多々あると思います。

このような分野を開拓することが重要だと思います。

2011年12月14日水曜日

孫子 臨機応変

孫子においては、その場その場での臨機応変力も重要視されます。

物事には必ず基本があります。

基本のなっていないものに応用力は付きません。

基本を忠実に守ることは重要です。

しかし、世の中には基本に忠実だけでは解決できない問題が山ほどあります。

この時重要なのが応用力です。

基本に忠実に対処するよりも、基本とは異なる対処法の方が良い時があります。

あるいは基本と全く逆の対処法の方が有効なときもあります。

実際の現場では、その場その場で臨機応変で対処する応用力も重要なのです。

基本に忠実に対処した方が適正なのか、あるいは、基本から外れた対処法が適正なのかの判断は非常に難しい所があります。

しかし、リーダーは常に現状を把握分析して、現状に最も適した対処法を適用する必要があります。

この決断ができる人が真のリーダーと言えるのではないでしょうか?

基本と応用の臨機応変の使い分けの重要性を孫子では説いています。

2011年12月12日月曜日

孫子 奉仕

孫子においては、軍師の役割の重要性を説くとともに、自分が使えるに値する王かどうかの判断基準も示しています。

それは、自分を軍師として雇い、自分の戦略を採用するなら、その国は戦争に勝利することが出来るが、自分を軍師として採用しても、進言を聞き入れない王や将のもとでは、戦争に勝てないといっています。

戦争においては、緻密に計画された一貫した戦略が必要ですが、優れた軍師が立てた戦略を採用しなかったり、実行できないようでは戦争には勝てないのです。

これをビジネスの世界に置き換えると、社長には優秀な参謀が必要となります。

その参謀の言うことに耳を傾けながら、決断を下していく必要があるのです。

単なるワンマン社長は自分が正しいと思いこみ、視野が狭くなり、全体像が見えなくなる危険があります。

このようなとき、優秀な参謀の意見に耳を傾ける余裕があれば、成功の確率は高まるのです。

別の見方をすれば、小さな組織であっても、部下の進言に耳を傾けて方針を判断するリーダーと全くのワンマンリーダーとでは、視野の広い前者の方が目標を達成できると思います。

孫子の思想では国民や兵士、ビジネスの世界では社員や部下の気持ちを一つにできるリーダーが勝利を収めることになります。

リーダーは常に自分の考えをチェックし、利己的になっていないか、全体のために働いているかを確認する必要があると思います。

2011年12月9日金曜日

孫子 七計

孫子が開戦前の戦力分析を重要視していることは、これまで書いてきたとおりです。

では、実際にどのように戦力分析を行うか?

この際七計を用いて、比較検討することを説いています。

1.国を治める主はどちらが、国民の指示を受けるような、人の道に反しない、賢明な政治を行っているか?

2.軍を取り仕切る大将は、どちらが有能であるか?

3.気象や季節、地形はどちらに有利か?

4.国や軍の規律はどちらの方が厳し守られているか?

5.軍力はどちらが強いか?

6.兵隊一人一人は、どちらの国が良く訓練されているか?

7.賞罰は、どちらが公明正大に行われているか?

これを企業に当てはめて考えてみます。

1.社長は社員の心を掌握するような方針を打ち出しているか?

2.リーダーである部長や課長の能力は優れているか?

3.市場の状況は自社に有利な状況か?

4.社内の規則を社員は守っているか?あるいは企業コンプライアンスは守られているか?

5.会社の技術開発力は優れているか?

6.社員一人一人が経営者意識を持って働いているか?

7.昇進や賞与の査定は公明正大に行われているか?

現在の企業に当てはめると上述のようになるのではないでしょうか?

企業が小さいうちは、社長の能力が優れていれば、上述のことは達成できるでしょうが、企業が大きくなっていくと、社長の目は届かなくなり、部長や課長等の中間管理職の能力が問われることになります。

しかし、優秀な人材というのはそれほど多くはありません。

限られた人材の中で、どのように上述のことを達成するかを考えることが重要です。

多くの大企業では、上述のことが出来ないために、優秀な人材を放出し、平凡は人材を抱え込むことが多くなっているのではないでしょうか?

孫子は企業のあり方や存在意義を明確にするのに大変有効な参考書だと思います。

2011年12月7日水曜日

孫子 五事

孫子においては、戦争を始める前に本当に戦争をすべきか、そうでないかを十分検討することを説いています。

戦争を開始するか、戦争を回避するかは、自国と他国の戦力分析で決定することになります。

この戦力分析を行うために、五事を用いることになります。

五事とは、「道」、「天」、「地」、「将」、「法」のことです。

「道」は大義名分と言い換えても良いと思います。

戦争には大義名分が必要となります。

これは、兵士や国民の心を一つにする必要があるからです。

人の心とは脆いものですが、大義名分のもとに一度結束すると、一人の力×人数分以上の力を発揮するものです。

戦争においては1+1を2以上にするための大義名分が必須なのです。

「天」は、気象条件や時間的条件のことです。

暑い日と寒い日、晴れた日と雨の日、明るい時間と暗い時間など、気象条件や時間的条件で戦力は大きく異なります。

「地」とは、地理的条件のことです。

戦場が平野なのか、山中なのか、谷底なのか等、地理的条件は戦況に大きく影響を与えます。

「将」とは、戦争を指揮する大将の能力と言い換えて良いと思います。

すなわち、知・信・仁・勇・厳など、人間の器の大きさのことです。

「法」とは、軍の規律と言い換えても良いと思います。

すなわち、軍の持つ力を有効に活用するためには、軍の統制が保たれている必要があります。

命令に対して、如何に迅速に従順に行動できるかが勝敗を分けるといっても加減ではないと思います。

上述のように孫子では、開戦前の戦力分析に「道」、「天」、「地」、「将」、「法」の五事を用いて十分検討するように説かれています。

2011年12月5日月曜日

孫子 基本理念

孫子は兵法書なので、戦争についての戦略を述べています。

しかし、孫子では冒頭で戦争に対する基本理念となる考えを述べています。

それは、戦争は国家存亡の重大事であり、戦争により国民や国家経済に多大な影響を与えることを十分認識したうえで、検討することが必要であると述べています。

これは、ビジネスにおいては、創業するとき、あるいは新規事業に参入するときに当たると思います。

すなわち、創業する場合や新規事業に参入する場合は、自分や従業員の生活にまで大きな影響を与える上、会社の経営状態にも大きな影響を与えることを十分認識した上、創業の可否、新規事業への参入の可否を判断する必要があると解釈できます。

戦争、創業、新規事業参入を検討する場合は、細心の注意が必要であるということです。

孫子における基本理念は、まず戦争(創業、新規事業参入)の重要性を認識し、その上で戦争(創業、新規事業参入)について、細心の注意を払い、調査しなさいということです。

この考えをベースに細心の注意の払い方、調査の仕方について説明していきます。

この考えは、一時の感情や思い付きで戦争(創業、新規事業参入)を始めてはいけないということを戒めているのだと思います。

次回以降は、戦争(創業、新規事業参入)を始める前の検討の仕方について紹介していきます。

なお、あまり関係ないかもしれませんが、今回が記念すべき投稿100件目です。

これからも、自分の勉強してきたことを紹介していきたいと思います。

2011年12月2日金曜日

孫子の兵法書

古今東西、兵法書と言えば真っ先に頭に浮かぶのは「孫子」ではないでしょうか?

孫子は約2500年前に著された兵法書ですが、兵法書として最も優れた書物の一つとして有名です。

また、兵法書としてだけではなく、現代のビジネス戦略の参考書としても注目される書物です。

孫子の優れた所は、戦略の基本が人の深い洞察から導き出されたものであり、内容の応用性に富んでいるという点ではないでしょうか?

孫子の崇拝者は歴史上の人物にも多く、書物の書かれた中国では、三国志で有名な曹操、日本国内では武田信玄、ヨーロッパにおいてはナポレオンが有名なところです。

孫子は、以下の13篇からなります。

1.(始)計篇

2.作戦篇

3.謀攻篇

4.(軍)形篇

5.(兵)勢篇

6.虚実篇

7.軍争篇

8.九変篇

9.行軍篇

10.地形篇

11.九地篇

12.火攻篇

13.用間篇

次回からは、孫子の兵法をビジネスに絡めて紹介していきたいと思います。

2011年11月30日水曜日

客家の教え まとめ

           

前回まで、客家の教え18の金言客家の格言として、人生やビジネスに参考になる教えを紹介してきました。

客家の教えは、実用的で深い意味を持つものが多かったと思います。

客家の教えはビジネスで成功を収めるだけでなく、人生を楽しく豊かに過ごす参考にもなると思います。

しかし、示唆に富む客家の教えも間違った解釈で実行すると、ビジネスでの成功も人生における成功も手に入れることはできないと思います。

特に客家の教えで感じたことは、人を疑ってかかるという教えが多いということです。

これは、客家の置かれた環境がそうさせたのですが、これをそのまま自分に当てはめて、人を疑ってばかりいては、ビジネスでも人生でも成功するわけがありません。

客家の人々は、初対面の人などには、表面的な笑顔で丁重に対応しますが、心の底では信用できる人間か、そうでない人間かを見極めようとします。

そして、信用に値しない人には、協力もしないし、パートナーとなることもありません。

しかし、一度信用を勝ち取ると、客家の人々はその人のために命を投げ打ってでも協力してくれるのです。

この部分が非常に重要で、人は全てを信用しきってはいけないが、信用に値すると判断したら、何よりも固い結束が生まれるということです。

このような固い結束こそが、ビジネスの成功をもたらし、人生を楽しく豊かにしてくれるのだと思います。

人を疑うことで始まる人間関係ですが、最後は固い結束で結ばれる人間関係で終わることが前提だと思います。

この部分を履き違えないように気を付けて、客家の教えをさらに勉強していきたいと思います。

2011年11月28日月曜日

客家の格言

 これまで多くの客家の教えについて紹介してきましたが、これまでに一回まとめた客家の教え18の金言以降の教えについて、客家の格言としてまとめておきたいと思います。


 それぞれの教え(格言)をクリックすると、以前解説した内容や私の解釈を見ることが出来ます。


事を起こす前に、まず人間であれ


早起きしないと一日が台無しになる。早く学ばないと人生が台無しになる


人は低きに流されがちだが、高きを目指さなければいけない


読書こそ、唯一の道


先祖の畑は売っても良いが、先祖の教えは失うな


教育こそが最大の貢献


右隣の人に助けられたら、今度は左隣の人を助けよ


信じても信じ込むな


口添えしても金添えするな


百聞は一見にしかず、されど百見は一行にしかず


うまい利益を得たところには二度と行くな


山には真っすぐな木はない、世の中には真っすぐな人はいない


苦労して稼ぎ、楽しく金を使う


人を迎えられぬ者は人に迎えられぬ


泥の菩薩が河を渡るなり


山中に虎無ければ、犬も王を称す


手面は手背を見られず


笑いは顔より離れざるも、心の内に刀を蔵す


人の善きは人に欺かれ、馬の善きは人に乗られる


兎は巣穴のまわりの草を食べず


行を隔つるは山を隔つるがごとし


にわかに富むも家を造るなかれ、にわかに窮すも粥を食すなかれ


理は声の高きところに在らざるなり


狼多くして人を食い、人多くして狼を食う


人は名の出るを恐れ、豚は太るを恐れよ


富は足るを知るにあり、貴は退くを求めるにあり


七十は瓦上の霜にして、八十は風前の灯なり

客家の教えには、人生やビジネスにおいて大変参考になるものがあります。

客家の教えについて学ぶことで、自分の人生やビジネスを見直す良い機会になると思います。

皆さんの参考になれば幸いです。


     

2011年11月25日金曜日

客家の教え 七十は瓦上の霜にして...

「七十は瓦上の霜にして、八十は風前の灯なり」

七十歳という年齢は、瓦の上の霜のようなもであります。

すぐに溶けてなくなります。

また、八十歳という年齢は、まさに風前の灯であり、いつ消えてもおかしくありません。

人は、死ぬ前にやるべきことをきちんとやってから死ぬべきであるという教えです。

つまり、自分が築いた財産等は自分が死ぬ前に分け与えることが重要であるということです。

客家の人々は、自分が死ぬ前に、自分の財産を分配しますが、多くの日本人は、死ぬまで自分の財産を抱え込む人が多いようです。

死んでは、財産を使うことはできません。

自分が死ぬ前に、子供や孫に分け与えることで、財産を有効活用できるというものです。

自分の死を考える年齢になったら、自分の財産を子孫に分配する必要があることを良く考える必要があります。

もっとも、相続するほどの遺産があればの話ですが。。。

2011年11月21日月曜日

客家の教え 富は足るを知るに...

「富は足るを知るにあり、貴は退くを求めるにあり」

富を得ることは足るを知るためにあるのだと思います。

足るを知るとは、満足することを覚えるということです。

人間の欲望は尽きることがありません。

どんなに多くの富や名声を得ても満足しない人がほとんどです。

しかし、富や名声を追い求めすぎると、周囲の恨みや妬みを買い、追い落とされる危険性が高くなります。

足るを知れば、必要以上の富や名声を求めることなく、幸せに暮らすことが出来ます。

このことから、貴い行動とは、綺麗な引き際を求めることだといえます。

足るを知り、満足したら、後進に道を譲るため、自分は身を引くことが重要です。

自分が身を引くことで恨みや妬みを買うことなく、富や名声も失わず、尊敬の念を持たれることになります。

人の幸せとは、富や名声を得ることではなく、自分自身が幸せだと感じ続けられることだと思います。

富は足るを知るにあり、貴は退くを求めるにありとは大変すばらしい教えだと思いました。

2011年11月18日金曜日

客家の教え 人は名の出るを恐れ...

「人は名の出るを恐れ、豚は太るを恐れよ」

養豚場で飼われている豚は太って目立つものから屠殺されていきます。

人も有名になり目立つようになると叩かれるようになります。

日本でも出る杭は打たれるといわれるように、目立つ人は攻撃の的にされやすいものです。

ビジネスに成功しても、周りから攻撃されるように目立った行動は慎んだ方が無難です。

ビジネスで成功を収めて、人生でも成功を収める人は、周りからは目立たない、謙虚な人なのかもしれません。

2011年11月16日水曜日

客家の教え 狼多くして...

「狼多くして人を食い、人多くして狼を食う」

多くの場合、食うか食われるかを分けるのは数であります。

数の多い方が食い、数の少ない方が食われてしまうということです。

この教えの解釈は色々できると思いますが、私は日頃の人との付き合い方が重要だと説いていると考えます。

つまり、雌雄を決するような重要な決断をする場合、味方が多い方が勝ち、味方が少ない方が負けるのだと思います。

この味方は日頃の自分の行動や振る舞いで増えたり、減ったりするのではないでしょうか?

常日頃から自分を律して、自分に厳しく他人に優しい人は、周囲の信頼も厚く、尊敬できるので、いざというときの味方になってくれるのだと思います。

一方、常日頃から自分の能力を鼻にかけ、自慢しているような人や口先ばかりで実行できないような人は評価を下げ、いざというときに味方になってくれる人が少ないのではないでしょうか?

いざというときの友が真の友と言われるように、日頃から自分を律して信頼関係を築いていきたいと思います。

2011年11月14日月曜日

客家の教え 理は声の高きところに...

「理は声の高きところに在らざるなり」

多くの場合、議論している場で大声を張り上げている方に非があるようです。

つまり、自分の非を隠すために大声で相手を威嚇することが多いからです。

この教えは必ずしも合っているようには思えませんが、議論の場で冷静に対応している人と感情のみで非論理的な主張する人を見比べると、冷静な人の方に理があるような気がします。

人は感極まってくるとどうしても感情的になってしまいます。

しかし、感情に流されると冷静な判断が出来なくなり、間違った考え方でも、自分が正しいと錯覚しがちです。

議論の場においては、自分を客観的に観察できる冷静さが重要だと思います。

常に自分の主張は誤っていないか、相手の主張に対して、今の自分の考え方意外に考え方はないのかと自問し続ける客観性です。

自分の考えに信念を持っている人は信念と頑固さを間違い、自分の過ちを指摘されても受け入れられない場合があります。

しかし、他人から間違いを指摘されたときに、客観的に自分が間違っているのか、指摘した人が間違っているのか判断する必要があります。

もし、自分が間違っているなら、素直に謝罪し、自分の考え方を改める必要があると思います。

この自分の考えを改めるということは信念を曲げることではなく、自分の信念を改良改善していると考えるべきだと思います。

自分の信念を貫きつつ、自分の間違いを認めていくことは非常に困難ではありますが、人生を有意義に生きていくためには必要な資質だと思います。

2011年11月11日金曜日

客家の教え にわかに富むも...

 「にわかに富むも家を造るなかれ、にわかに窮すも粥を食すなかれ」

急に金回りが良くなって豊かになっても、すぐに家など建ててはいけません。いつ何時、何が起こるかわからないので、まずは蓄えて様子を見た方が良いということです。

さらに、急に貧しくなったとしても、貧乏くさい食事をしてはいけません。

貧乏くさい行動をしていると、周りの人も離れていき、さらに金回りが悪くなってしまうからです。

人は富めるときも窮するときも慎重に考え、行動する必要があります。

その時の行動次第で、富を一瞬にして失うこともあれば、貧乏になったときに貧乏に追い打ちをかけるようなことになってしまいます。

その時々の状態を良く観察して、時には見栄を張って無理をした方が良い結果を生み出すこともあるのです。

急な環境の変化は他人を変えてしまいがちですが、そのような時程自分の行動を見直す必要があります。

2011年11月9日水曜日

客家の教え 行を隔つるは...

 「行を隔つるは山を隔つるがごとし」

隣の部署の仕事内容は、山を隔てた隣町の様子と同じくらいわからないものであります。

仕事が違えば、その内容は部外者にはわからないので、むやみやたらと他部署の人を批評してはいけませんという戒めです。

この教えは中国の組織統制に関する話に良く出てきます。

他人の仕事に口出しすべきではなく、己の仕事のみに精を出しなさいという教えです。

ある意味この教えは当たっていますが、間違った解釈をすると極端なセクショナリズムを生み出してしまいます。

つまり、縦割り組織と呼ばれ、隣の部署の人の仕事に全く興味を持たず、自分の部署が良ければ、他の部署などどうでも良いという組織です。

現在の日本政府の組織がまさにこの典型ではないでしょうか?

他人の仕事に口出しばかりして、自分の仕事を疎かにするようでは問題外ですが、自分の次ごとに関連する他部署の仕事内容や進捗に目を配るのは大変重要なことです。

さまざまの教えには表裏があり、ある一面ばかりを強調することが多いと思います。

しかし、人生やビジネスを成功に導くためには教えに隠された裏の面まで考慮して、バランスよく実行することが重要なのだと思います。

2011年11月7日月曜日

客家の教え 兎は巣穴のまわりの...

 「兎は巣穴のまわりの草を食べず」

いざというとき、自分を守ってくれるのは、近くにあるもの、いる人です。

だから、近くにあるもの、いる人を大事にしなさいということです。

日本の諺にも、「遠い親戚より、近くの他人」というものがあります。

いざというとき頼りになるのは、遠くに住んでいる親戚より、近くに住んでいる他人であるということです。

身近にいる人や、身近にあるものは、あまりにも近すぎて、そのありがたみがわからなくなることがあります。

しかし、いざというとき、そのありがたみを感じるわけですが、日頃、そのような身近な人、物を大事にしていないと、自分を助けてくれないということです。

本当に困ったときに、助けてもらえるか、否かは、日頃、自分がどのような態度で接してきたかにかかってきます。

自分の周りにいる身近な人や物を再度見直して、日々感謝しているか確認してみる必要があると思います。

2011年11月4日金曜日

客家の教え 人の善きは...

 「人の善きは人に欺かれ、馬の善きは人に乗られる」

いわゆるお人好しと呼ばれるような人の好い人は、他人に騙されて、他人に使われます。また、能力の高い人も場合によっては、その能力を他人に利用されやすいものであります。

逆に言うと、自分が成功したいなら、他人をうまく使いこなすことが重要であります。

お人好しを騙して利用するのは、行き過ぎだと思いますが、能力は平凡でも素直で人の言うことを良く聞く人には、その人に合った仕事を与え、その人の能力以上のものを引き出すことが重要です。

また、自分にない能力あるいは自分より優れた能力を有する人を使いこなすことが成功の秘訣だと思います。

自分が全てに長けて、部下に全ての指示を与えられるようなカリスマ上司なら別ですが、一般的には、そのまで優れた人は稀有です。

また、そのような上司でも、優れた有能な部下をうまく利用した方が、仕事の効率は上がるうえ、後進を育てることにもなり、一石二鳥と言えます。

どんなに優秀な人でも、人ひとりでできることは、限られています。

集団に力をうまく利用できれば、自分一人ではできないような大きな仕事をやり遂げることが出来ます。

個々の能力は平凡でも、優秀なリーダーが集団を率いることにより、優秀な集団に仕上げることは可能だと思います。

組織におけるマネージャーの仕事とは、上述のような仕事なのだと思います。

今はちっぽけな会社ですが、いつか集団を率いて大きな仕事ができるようになりたいと思います。

2011年11月2日水曜日

客家の教え 笑いは顔より離れざるも...

「笑いは顔より離れざるも、心の内に刀を蔵す」

この教えも客家ならではの、人を疑ってかかる教えです。

人は顔で笑っていても、腹の底ではとんでもなことを考えていることがあります。

通常、人を騙すことがうまい人は、如何にも人を騙しますというような顔付はしていません。

むしろ、この人が人を騙すのかと疑いたくなるほど優しい顔をしていたりします。

人はぱっと見では判断できないという教えです。

客家の教えでは、まず人は疑ってかかれという教えが多いです。

これは、客家の置かれた環境が、周囲が敵ばかりで、少しでも油断すると、自分の生命が危ぶまれるような環境だったからです。

しかし、客家の教えでは、一度その人が信用できる人だとわかったら、自分の命を投げ打ってでも守ってくれる強いつながりが出来ます。

人を信じてばかりでは、人生、ビジネスはうまくいきませんが、人を疑ってばかりでもうまくいきません。

難しいことですが、信じてよい人と、信じてはいけない人を見分ける目を養い、信じられる人を見つけられたら、お互いのために全力を尽くせるようになることが重要なのだと思います。

まずは、いろんな人と付き合って、自分の人を見る目を養っていきたいと思います。

2011年10月31日月曜日

客家の教え 手面は...

 「手面は手背を見られず」

手のひらは決して手の甲を見ることはできない。

この言葉の意味するところは、どんなに親しい間柄でも完全に信じ切ってはいけないということです。

客家の教えの根底には、人を完全に信じてはいけないとの思想が見えます。

しかし、これは客家の人々が非常に厳しい環境にいて、一つの失敗が命取りになる危険性が高かったためです。

人を信じることは大事だと思います。

しかし、盲目的に人を信じてはいけないのだと思います。

常に客観視できる自分を持ちなさいということだと思います。

人を信じていても、常に客観的に本当に信じてよいかどうかの検証は必要だということです。

人は変わるものです。

自分の知らないところで、その人がわかるような出来事は十分起こり得るのです。

しかし、人が変わったからと言って、その人ばかりを責めてはいけないと思います。

常にその人のことを客観視する自分がいれば、その人が変わったときに気付くはずです。

この言葉は、「信じても信じ込むな」に相通じるものがあります。

客家の教えを学んでいくと、人生、ビジネスにおいては常にバランス感覚が必要であるとを実感します。

これからも、多くのことを学んでいきたいと思います。

2011年10月28日金曜日

客家の教え 山中に虎無ければ...

 「山中に虎無ければ、犬も王を称す」

自然界では、弱肉強食で強いものが支配しますが、虎のような強者がいないところであれば、犬でも王となることが出来ます。

これはビジネスの基本を述べているとも言えます。

例えば、大企業が支配しているような市場に、何のとりえもない零細企業が参入しても勝ち目はありません。

しかし、大企業がまだ気付いていない市場で勝負すれば独り勝ちが出来る可能性があります。

ベンチャー企業が一躍成長する典型例だと思います。

皆がまだ気付いていない市場をうまく嗅ぎ分け、考えに考え抜いて市場参入することが重要だと思います。

しかし、このような市場に気付くには訓練が必要です。

常日頃から、頭の片隅で考え続ける訓練です。

この訓練を続けていれば、いつか頭の中に素晴らしいアイデアがひらめくのだと思います。

しかし、このひらめきは単なる偶然ではなく、常に新しいことを考え続けていたがためにひらめくのだと思います。

毎日毎日頭を使って考え抜く訓練をしていきたいと思います。

2011年10月26日水曜日

客家の教え 泥の菩薩が...

 「泥の菩薩が河を渡るなり」

ここでいう泥の菩薩とは、自分のことは棚に上げて、人に偉そうなことを言う小人のことです。

つまり、小人が自分のことを棚に上げて、他人に説教したり、偉そうなことを言うと自分の身を滅ぼしてしまうことを戒めています。

世の中には、自分のことは棚に上げて、自分では全くできていないような素晴らしい行いを他人に求める人がいます。

しかし、自分でできていないことを要求されても、他人は聞く耳を持ちません。

他人は偉そうなことをいう人、自分に説教するような人の日頃の行いを見ています。

同時に人は取るに足らない小人のいうことを聞くことはありません。

日頃から自分の行いを律し、他人から尊敬されるような人の意見は、どんなに厳しい意見であっても聞き入れます。

このことは、自分の身近の人に当てはめて考えれば、すぐ理解できると思います。

何にでも首を突っ込んでくるが、自分では何もできない人が、偉そうに説教しても、誰もその人の話は、真剣に聞かないと思います。

しかし、一方で日頃自分が尊敬している人が、自分の意見と異なることを言った場合、一度自分の考えを検証すると思います。

同じことを言っても、言う人によって相手の捉えられ方は大きく変わります。

自分が物を言う場合は、まず自分のことを律してから言うように心掛けたいと思います。

2011年10月24日月曜日

客家の教え 人を迎えられぬ...

 「人を迎えられぬ者は人に迎えられぬ」

人を歓迎できない人は、人から歓迎されないというシンプルな教えです。

人を歓迎するには二つの意味があると思います。

一つは、人を我が家に招くとき、精一杯のおもてなしをするためにお金をかけるという意味です。

少し俗っぽい意味合いですが、人付き合いにおいては結構重要な要因です。

ある意味形から入るタイプですが、お金と手間暇をかけると、招かれた客はそれを感じ取ります。

逆に招かれた客が、自分を招待するときに同様な歓迎をしてくれることになります。

このような関係を続けていると、いつしか信頼関係も築かれていくものです。

もう一つの意味は、心の扉を開くという意味です。

客家の人々は、周りに敵が多かったため、人を簡単には信用しなかったといわれています。

下手に人を信じ込むと、自分の身を滅ぼす危険性があったためです。

しかし、一度信用を得ると家族以上の信頼関係を築けるそうです。

逆の意味で、このような信頼関係を築けるほどの歓迎をしないと、自分も信頼されないということになります。

この意味では、人を信じられぬ者は、人に信じられぬと読み替えることが出来ると思います。

2011年10月21日金曜日

客家の教え 苦労して稼ぎ...

 「苦労して稼ぎ、楽しく金を使う」

稼ぐときは一杯苦労した方が良いと思います。

苦労して稼ぐことで、稼いだお金の使い道を真剣に考えると思います。

自分で苦労して稼いだお金を無駄に使う人は少ないと思います。

しかし泡銭のように、楽して稼いだお金は無頓着に使ってしまうことが多々あるともいます。

お金の有難味は稼ぐときの苦労の大きさで感じるのではないでしょうか?

一方で、お金を使うときは楽しく使うことが肝要です。

生活していく上でお金は必ず使いますが、使い方が重要です。

同じお金を使うにしても楽しんで使うことにより、感じる幸福感が全く異なると思います。

お金は貯めるためにあるのではないと思います。

お金は使うためにあるのだと思います。

お金を貯めるのも、最終的には使うために貯めるのです。

お金は世の中を回ることにより機能します。

このため、お金は使うときに楽しむことが重要です。

お金を使うときに楽しみ、幸福感を味わうことでまた働く元気が出てくると思います。

お金がもったいなくて、いやいや使っていたら、この幸福感は味わえないと思います。

苦労して稼ぎ、楽しく金を使うとは、味わい深い言葉だと思います。

2011年10月19日水曜日

客家の教え 山には真っすぐな...

 「山には真っすぐな木はない、世の中には真っすぐな人はいない」

山に生える木に真っすぐな木がないように、世の中に欠点や弱点を持たない人はいない。他人を見るときは、この点を考慮して温かい目で見なければならない。」

とかく人は、他人の長所には寛容ですが、他人の短所には厳しい視線を向けます。

つまり、他人の長所は当たり前と受け止め、他人の短所は我慢できない傾向にあります。

しかし、他人には必ず、良い所と悪い所があります。

私の考えでは、悪い所より良い所を多く持つ人が良い人、良い所より悪い所を多く持つ人が悪い人思われているのだと思います。

逆の見方をすると、どんなに良い人でも必ず悪い所を持っているし、どんなに悪い人であっても必ず何かしら良い所を持っているのです。

日頃良い人だと思っていた人がふとした拍子に悪い一面を見せると、その人がすごく悪い人に感じるときがあります。

しかし、冷静に考えれば、その人の悪い一面はその人の中のわずかな部分なのです。

そのわずかな部分を強調して考え、その人自体が悪い人だと考えるのは間違いだと思います。

人には必ず欠点、弱点があるという前提で、できるだけその人の良い所を見てあげることが円滑な人間関係を築く上で重要だと思います。

言うは易く行うは難しの代表例ではありますが...

2011年10月17日月曜日

客家の教え うまい利益...

「うまい利益を得たところには二度と行くな」

日本でいうところの「柳の下の二匹目のドジョウをねらう」ようなことはしてはいけないということです。

たまたま柳の下でドジョウを捕まえた人がいても、二匹目のドジョウが柳の下にいるとは限りません。

また、事業において大成功したとしても、いつまでもその成功にしがみついていては、いつかは失敗することになります。

事業の一番難しい所は、成長し続けなければならないということです。

成長し続けるためには、一度大成功したとしても、その成功の後の次の成功を考えていなければならないということです。

特に一度大きなヒット商品が生まれると、次はそれ以上のヒット商品を生まなければ、成長し続けることが難しくなります。

一発屋で終わるのは、一回の大成功にしがみつき、次のヒットを生み出す努力を怠るためだと思います。

事業において成長し続けるには、大きな成功を一つ達成するよりも、小さな成功を積み重ねていくことだと思います。

まずは、一歩一歩着実に成長できるように頑張っていきたいと思います。

2011年10月14日金曜日

客家の教え 百聞は一見に...

「百聞は一見にしかず、されど百見は一行にしかず」

「百聞は一見にしかず」という言葉は良く耳にすると思いますが、これには続きがあり、「されど百見は一行にしかず」と続きます。

百回聞くよりも一回見た方がわかりやすい、でも百回見るよりも一度自分で行ってみた方が、もっとわかりやすいということです。

例えば、あなたがこれまでに知らない新たなスポーツについて、他人から話を聞くよりも、実際にそのスポーツをしているところを見た方が理解し易いでしょう。

さらにそのスポーツを見ているよりも、実際にそのスポーツを実践してみた方が、もっとそのスポーツについて理解することが出来るでしょう。

事業においても同様のことが言えます。現代はインターネットが普及し、情報は溢れるほどあります。この情報を集めるだけでは実際の事業は行えません。

実際に実践してこそ、事業の神髄は理解できると思います。起業する前は、どうしても耳年増になりがちです。

もちろん、事前の調査は重要で、いきなり実践するのは無謀です。しかし、調査ばかりしていても、事業が進まないことも事実です。

事前調査である程度の目処が立ったら、実践して事業を進める過程で修正していくことも重要だと思います。最近実践することの重要性を感じている今日この頃です。

2011年10月12日水曜日

客家の教え 口添えしても...

 「口添えしても金添えするな」

知り合いが困ったとき色々アドバイスするのは良いですが、お金を出してはなりません。アドバイスの言葉やお金には力があります。

しかし、言葉とお金の力は異なるものです。時にお金は人を悪魔に変えることがあります。お金とは、それほど強い力を持ったもので使い方を誤るととんでもないことになります。

例えば、お金に困ってあなたのところに知人が相談に来ても、あなたがお金を出して解決することはほとんどありません。多くの場合、問題を大きくしてしまうだけです。

基本的にお金の問題は、当事者本人が解決しない限り終わることはないのです。そのため、相談者にはお金を出すのではなく、当事者本人が解決するための方法を一緒に考え、アドバイスすることが重要なのです。

極稀に、お金を出してあげることで問題が解決することもあります。しかし、この場合でも、本当に自分はお金を出してあげるべきか熟慮する必要があります。この判断は簡単ではありません。

まずは、相談者にはアドバイスを与え、状況を見守ることが無難だと思います。お金は天使にも悪魔にもなりますが、一度悪魔の姿を見せると痛い目に遭うということを肝に銘じておきたいと思います。

2011年10月7日金曜日

客家の教え 信じても...

 「信じても信じ込むな」

この教えは奥深い教えだと思います。人生や事業において信頼関係は非常に重要な要因です。信頼関係なしに人生や事業は行えません。

相手を信じるから重要な話もできますし、自分のことも話せるのだと思います。信用できない相手には決して重要な話はしませんし、自分の身の上話はしません。

信頼し合える関係を築き上げることが出来れば、これ程結束の固いものはないといえるでしょう。しかし、信頼関係は永遠ではないとも言えます。

一度築いた信頼関係がほんの些細なことで壊れることもあるのです。結束が固かった信頼関係ほど、一度壊れると修復が困難になります。

「信じても信じ込むな」には、盲目的に相手を信用してはいけないということを示唆しているのだと思います。本当に相手を信用できなければ人生辛いと思います。

しかし世の中には人を信じて疑わない人もいます。自分が騙されていても、騙されていると自覚できず、周りの人のアドバイスも聞かないタイプの人です。

このような状況が「信じ込む」だと思います。こうならないためには、常に客観的にもの見る目を養う必要があります。

一度築いた信頼関係も、時には客観的に信用できるかを見直す必要があります。一見使用できる人も、別の観点でみると信用できない人に見えることがあります。

本当に信用できる人は、自分が本当に困ったときに助けになってくれる人です。自分が本当に困ったときに自分を助けてくれる人か、自分から離れていく人かが一つの判断材料になるのではないでしょうか?

「信じても信じ込むな」はまさにバランスの問題だと思います。バランス感覚の優れた人間になりたいです。

2011年10月5日水曜日

客家の教え 右隣の人に...

 「右隣の人に助けられたら、今度は左隣の人を助けよ」

人間社会は持ちつ持たれつの関係で成り立ち、困ったときにはお互い助け合うことが重要ですが、見返りを求めてはいけないということです。

上の言葉は相互扶助の考えに則り、しかも各人が見返りを求めない奉仕の気持ちでお互いを助ける仕組みを構築しています。

ある人に自分が助けられたら、助けられた人にお礼をするのではなく、他の困った人を助けなさいという教えです。

非常に優れた教えだと思います。この考え方を実践すれば善意の輪が指数的に広がっていくことになります。

我々は、つい助けてもらった人に感謝の気持ちを表し、お礼をしたがります。ある意味当然の考え方、行為でありますが、客家教えはその一歩先を行っているといえると思います。

これまで、自分自身も多くの人に助けられてきました。いつかは、自分自身が多くの人を助けられるような人間になりたいと思います。

2011年10月3日月曜日

客家の教え 教育こそが...

 「教育こそが最大の貢献」

人を育てるということは非常に大事なことですが、人を育てるということは、自分がそれなりに成果を残した人が行うことだと思います。

人を育てることを生業とする人以外は、まず自分がことを為す必要があると思います。人を教育する場合、教える人の権威付が重要になります。

大事を為した人の話は重みがあり、有難味もありますが、口だけの人の言うことは心には響きません。

一方、世の中には人生や事業で大成功を収めた人がいます。そのような人は、次世代の人材を教育する義務があるのではないでしょうか?

自分の成功は自分のためだけに使うのではなく、他人のためにも使うべきだと思います。この点で教育こそが最大の貢献と言えるのではないでしょうか?

今は小さなことをコツコツ積み上げていますが、いつか大輪の花を咲かせて、自分も人を育てる義務を負えるようになりたいと思います。

2011年9月30日金曜日

客家の教え 先祖の畑は...

 「先祖の畑は売っても良いが、先祖の教えは失うな」

先祖の畑とは、先祖代々受け継いできたその家の財産のことです。この財産を売るということは並大抵の状況ではありませんが、先祖代々受け継いできた財産は売っても良いといっています。

しかし、先祖代々受け継いできた先祖の教えは絶対失ってはいけないと教えています。それほど、先祖の教えとは重要なのです。

先祖の教えとは1回や2回の出来事で出来上がった教えではなく、これまでに経験してきた多くの事柄を総合的に判断して出来上がった教えなのです。

そして、先祖の教えとはその一族が経験してきた事柄からなっており、今後同じような状況に面する可能性は高いと考えられます。

この先祖の教えを失えば、人生の指針を失うことと同じです。これから先何が起こるかわからない人生において、先祖の教えがあるのとないのとでは雲泥の差があります。

先祖の教えが必ずしも正しいとは限りませんが、90~99%正しいと考えてよいと思います。先祖の教えを頼りにしながら、常に新しい観点で先祖の教えを改良していくことが人生の成功の秘訣ではないでしょうか?

先人たちの教えを頭に入れながら、日々改善改良を心掛けていきたいと思います。

2011年9月28日水曜日

客家の教え 読書こそ...

 「読書こそ、唯一の道」

読書は人生を豊かにしてくれます。読書によって自分では経験できないことを疑似体験できたり、情報を得ることが出来ます。

最近では、読書以外でも漫画やテレビ等で情報を得ることが出来ます。しかし、私はその他の情報を得る手段と、読書とでは得られるものが若干異なると思っています。

テレビや漫画から得られる情報は視覚が主体であり、ある映像を伴います。これに対して、読書は文字のみの情報です。

文字のみで得られる情報は、読む人によって捉えられ方が異なる可能性があるということです。つまり、本に書いてある内容の解釈は読む人によって異なることが多々あるのです。

一方、テレビや漫画は映像を伴うため、解釈の幅が狭まります。視聴者、読み手の感じ方が画一化される傾向があると思います。


ある一面では、この方が情報の共有が容易となり、良いこともあると思いますが、自己研鑚のための情報収集においては、読書の方が優れていると思います。

読書には想像力が必要になります。文字を読むことにより、著者の言わんとすることを想像する力です。小説であれば情景を、論文等であれば書いてある内容の背景等を想像しながら読み進むことで理解力が増すと思います。

読書は自分にとって非常に良いことだと思っています。最近読書量が減っていますが、時間を見つけて出来るだけ多くの読書をしたいと思います。

2011年9月26日月曜日

客家の教え 人は低きに...

 「人は低きに流されがちだが、高きを目指さなければいけない」

人は人生において困難にぶつかると、楽な選択をしがちです。しかし楽な方は得てして自分自身を低い方へと導いていき、人生の坂道を転がり落ちていってしまいます。

困難にぶつかったときの判断は、その場しのぎではいけません。先を見据え、現在は厳しいと思われる道でも、将来的に自分のためになるならあえてその道を選ぶ必要があります。

そして、長い目で見たとき、その判断は自分を一段高い所へと導いてくれます。困難にぶつかったとき、その場しのぎで楽な道を選んだ人は、自分を低い位置へ導き、将来のことを考え、自分に厳しい試練を与えた人は、自分を高い所へと引き上げます。

常に向上心をもって生きている人は、その時々の判断基準が、将来の自分をイメージしており、今現在の自分を判断基準にしていません。

そして、そのように生きている人は必ず成長し、大きな成功を収めているので花でしょうか?自分自身はまだまだ楽な方に流される傾向が強いと反省しております。

もっともっと先を見据えた高い視点での判断基準を持てるように努力してきたいと思います。

2011年9月21日水曜日

客家の教え 早起きしないと...

「早起きしないと一日が台無しになる。早く学ばないと人生が台無しになる。」

早起きは三文の徳(得)というように、古来より早起きは良いとされてきました。理由は色々あると思いますが、脳の活動と関係があるのではないでしょうか?脳は朝起きてすぐに活発になるわけではありません。ある程度の時間が必要です。

このため、朝早く起きることにより、脳の活動が活発になる時間を長くすることができ、多くの良い考えが浮かぶからではないでしょうか?

また、寝起きは十分な休息後なので、午前中に重要な用事は済ませた方が良いと考えられます。このようなことから早く起きることにより、有意義な一日を過ごせるのだと思います。

人生については、早く多くのことを学んだ方が得だと思います。なぜなら知っている知識を早くから活用できるからです。

世の中には知っていれば得することが数多くあります。逆に言うと知らないと損することも多く存在するということです。

早くから、様々なことを学ぶことにより、自分自身の人生を魅力あるものに変えることが出来るとも言えます。

早起きが苦手な私は、少しでも早く起きる習慣をつけて、今からでも、多くのことを学んでいきたいと思います。

2011年9月19日月曜日

客家の教え 事を起こす前に...

「事を起こす前に、まず人間であれ」

何か大事を為そうと思う前に、自分は人間として一人前かを問う必要があります。人は大成功を夢見て、頑張りますが、人間として十分成長する前に、大事を為そうとしても全てが空回りしてうまくいきません。

なぜなら、大事を為す人が未熟で、人としての魅力がなければ、周りの人の協力も得られず、大事を為すことなどできないからです。

人は、人として何が正しいかをベースとして、日々学び続ける姿勢が重要です。人として成長し、周りの協力を得られるようになって、初めて大事を為すことが出来るのです。

人は自分一人ではできることに限りがあります。多くの仲間の協力が得られて初めて大きなことを成し遂げることが出来るのです。

能力が高くても、人としての魅力がなければ周囲の協力が得られず、大きな仕事はできません。また、人間性が良いだけで、能力がない人も、大きな仕事はできません。

リーダーにはバランス感覚が必要です。日々自己研鑚し、人間としての魅力を磨くと同時に、仕事を進める上での能力も高める必要があります。

あるいは、ある分野の能力がない場合には、他人を動かす能力が必要です。他人を引き付ける魅力のある人は、自分に能力がなくても、能力のある人を動かし、事を成し遂げることが出来ます。

自分一人でできることは限りがあります。自分の能力が高い人は、周りの協力が得られる人間性を磨く必要がありますし、人間性は良いが能力の低い人は、自分の分野の能力を高めることで周りのさらなる協力を得ることが出来ます。

自分の魅力や能力を見直す時間を持つことで、新たな可能性を見つけることが出来るかもしれません。

2011年9月16日金曜日

2011年9月14日水曜日

客家の教え 欲望に忠実...

「欲望に忠実になるためにこそ禁欲的に」

一見すると矛盾するように見えますが、実は核心を突いた言葉です。自分の欲望を満たすためには、まず自分の欲望を押し殺して、他人の欲望を満たしてあげる方が近道なのです。

自分の欲望を表に現わしている人の周りに人は寄ってきません。いわゆる利己的な人の周りには人は近づかないのです。

それよりも、他人のために一生懸命な人の周りには同じような人が集まってきます。そして、他人のために働く人は、周りの人の欲望を満たしてくれます。

このように他人の欲望を満たし続けていると、自然と周りの人が自分の欲望を満たしてくれるようになるのです。

急がば回れと言いますが、まさに自分の欲望を満たすためには急がば回れです。別の言い方をすれば、情けは他人のためならずとも言えます。

また、この考え方はカントの考え方にも近いと思います。鳥は空気がなければ、空気抵抗がなくなってもっと速く飛べるのにと思いますが、実際に空気が無くなれば飛ぶことは全くできないのです。

同じようにカントは、人間社会には規則があるから自由に生きられるのだと考えました。良く学生時代に規則にがんじがらめになって、自由がないと感じた人も多いと思います。

しかし実際には、規則があるから自由を感じられるとも考えられます。仮に法律が無くなったとすると、一部の無法者が自分勝手な振る舞いをするかもしれません。

そのような無法者を取り締まる法律がなければ、自由に生きることはできなくなる可能性があります。

欲望に忠実になるためにこそ禁欲的にという言葉は奥の深い、核心を突いた言葉だと思います。肝に銘じて頑張ります。

2011年9月12日月曜日

客家の教え ありがとうは...

「ありがとうは必ず声に出すべし」

人生、ビジネスにおいて感謝の気持ちを持つことは大変重要であります。その感謝の気持ちを端的に表すのが、ありがとうの一言です。

このありがとうを声に出して言うことが、人生、ビジネスの成功のチャンスを広げます。言わなくてもわかるだろうと思っても、声に出してありがとうと言った方が良いです。

些細なこと、例えばひとに物を取ってもらった時に、笑顔でありがとう言えば、取ってくれた人も気持ちが良くなります。

このような小さなことの積み重ねで、幸運はその人の周りに集まってくるのだと思います。ありがとうは、人生、ビジネスを成功させるための魔法の言葉と言えるかもしれません。

どんなに小さく、些細なことでも、笑顔で声に出してありがとうと言う習慣を身に付けたいと思います。

2011年9月9日金曜日

客家の教え 笑顔は...

「笑顔はコストゼロの最良戦略」

昔より笑う門には福来るといいます。笑顔が絶えない家庭には幸福が舞い込んでくるという考え方です。一見すると、笑っているだけで幸せになれるかとの思いが頭をよぎります。

しかし、この諺は真実だと私は思います。実際に笑顔の多い家庭と、笑顔の少ない家庭を想像してみただけで、どちらが幸福か判断がつくと思います。

人生や勝負においては「流れ」というものがあります。うまくいくときは何をやってもうまくいくのに、うまくいかないときは何をしてもうまくいかないと感じたことはないでしょうか?

この「流れ」は現在の科学では説明できないと思いますが、私は必ず存在し、将来科学によっても証明されるであろうと思っています。

この人生や勝負における「流れ」を変える大きな武器が笑顔だと思います。笑顔は幸せの象徴であり、善いことの象徴だと思います。この笑顔を絶やすことなく人生を送れば、必ず幸せになれると思うのです。

また、人間は自分でこうなりたいと心底思う自分になります。今の自分が嫌いな方は、実は自分でそのようになるように仕向けているのです。

理想の自分を思い描き、常にそうなりたいと思い続ければ、理想の自分にどんどん近づいていきます。幸せになりたいと強く思えば、幸せになれるのです。その第一歩が笑顔なのです。

笑顔でいることにコストはかかりません。自分の努力だけで実現できる最良の戦略なのです。今自分の周りの流れが悪いと感じる方は、まず笑顔を作ってみましょう。うまくいかないとき笑顔になるのは難しいかもしれません。しかし、他に打つ手が無くなったら、嘘でも笑顔を作ってみましょう。過去の楽しい思い出やうれしかったことを思い出して、笑ってみましょう。きっと良いことが近づいてきてくれます。

2011年9月7日水曜日

客家の教え 汗ではなく...

「汗ではなく考えることこそが富を生む」

良く額に汗して働くといいますが、ビジネスにおいて大成功を収めるためには、肉体労働だけでは駄目です。じっくり考えアイデアを出す必要があります。

周りの人が考え付かないような素晴らしいアイデアがビジネスを成功へと導くのです。体を動かして働いていると、自分が一生懸命働いているように感じます。

しかし、トップマネジメントは体を動かしているだけでは駄目なのです。常に新しいこと、先のビジネスを考えていなければなりません。

言うなれば、額に汗をかくのではなく、脳に汗をかく必要があるのです。もう考えすぎて頭が回らないと思うくらい考える必要があります。

また実際は考えるだけでも駄目です。もうこれ以上考えられないと思うくらい考えた後は、そのアイデアを実行する必要があります。

机上の空論をこねくり回しているだけでも、ビジネス上の成功は得られません。頭脳労働と肉体労働のバランスが大事です。

自分自身に置き換えてみると、頭脳労働も肉体労働もまだまだできていないと感じています。もっと考え、もっと実行に移す努力をしていきたいと思います。

2011年9月5日月曜日

客家の教え 物事は因数分解...

 「物事は因数分解して考えよ」

因数分解とは、高次の式を一次式に分解し、一次式の積で表すことですが、ここで述べているのは、複雑な問題は、簡単な問題に分解して考えなさいということです。

この考え方は、私の恩師の教えと同じだと思いました。学生の頃、私の恩師が教えてくださったのは、次のようなことでした。

複雑な自然現象は、そのまま理解することは非常に困難であります。しかし、一見複雑に見える自然現象は、単純な事象の組み合わせにすぎないのです。

複雑な自然現象を、単純な事象でモデル化すれば、理解できるという考え方です。そして、複雑な自然現象を単純な事象でモデル化できれば、その事象は9割方理解できたも同然だというのです。

一見複雑な自然現象は、紐解く糸口すら見つけられないことがほとんどです。そのような現象の中から、糸口を丹念に探し、単純な事象にモデル化できれば、確かに9割方理解できたも同然です。

また、この恩師は、「自然科学において奇跡はない」とも仰っていました。奇跡に思えるのは、自然科学において理解できていない分野があるため、その時点での自然科学で解明できないだけなのです。

技術の進歩が進み、過去の奇跡が現在では当たり前ということは多いと思います。自然科学は万能ではありません。しかし、自然科学の進歩が様々な謎を解明してくれるのも事実です。

我々は、複雑な問題を目の前にしたとき、どうしたらよいかわからず、右往左往します。しかし、上述のように、複雑な問題を解く糸口を丹念に探し、簡単な問題に置き換えて考える必要があります。

常にあらゆる観点から、物事を見る目を養い、複雑な問題を簡単な問題に置き換えて考えられるように努力していきたいと思います。

2011年9月2日金曜日

客家の教え 嫉妬は成功の敵...

 「嫉妬は成功の敵、愛嬌は成功の素」

ビジネスを行う上で嫉妬は百害あって一利なしです。嫉妬はビジネス成功の敵と言えます。なぜなら、他人の成功を羨み妬んでみたところで、自分のビジネスにプラスになるこは何もないからです。

他人の成功に嫉妬する暇があるなら、自分のビジネスを成功させるために何をするべきかを考える時間に充てるべきです。

一方、愛嬌は成功の素と言われます。愛嬌のある人の周りには同じように愛嬌ある人たちが集まってきます。愛嬌のある人たちは一般的に明るく前向きな人たちが多いようです。

このような人たちが集まると、建設的で前向きなアイデアが噴出してきます。このアイデアを実現していくことで、皆が大きな成功を収めるという好循環に入っていくことが出来ます。

ビジネスにおいては、他人の成功に嫉妬することなく、愛嬌を振りまいて、自分のビジネスを成功に導く良い友人たちを集めた方が得策と言えます。

2011年8月31日水曜日

客家の教え 安売りには...

 「安売りには必ず終わりがやってくる」

市場において安定期を過ぎると多くの場合価格競争に入っていきます。しかし、どんなに安い価格を提示していても、必ず単なる安売りには限界があるのです。

ビジネスで成功するためには単なる安売りだけでは駄目だということです。他社が真似できない価値を創造する必要があります。

企業の重要な役割の一つが価値創造だと思います。物理的あるいは知識的材料を加工して、これまで市場にない価値を創造して販売することが企業の重要な役割であります。

価値を創造して、あるいは高い付加価値をつけて、ものやサービスを販売し、その対価を受け取る。消費者は新たな価値、付加価値を購入して幸せになる。これが理想的なビジネスの姿であると思います。

我々も小さいながらに新たな価値を創造していけるよう頑張っていきたいと思います。

2011年8月29日月曜日

客家の教え 金鉱では...

 「金鉱ではスコップを売るべし」

ゴールドラッシュで沸いたアメリカでは、多くの人々が金を求めて、金鉱探索を行いました。しかし、大きな金鉱を掘り当てて、成功を収めたのはごく一部の人たちだけでした。

このようなゴールドラッシュの時期に、金鉱探索をするのではなく、スコップ販売に精力を傾けた人がいたのです。この人が大成功を収めたことは言うまでもないことです。

ここで述べていることは視点を変えることの重要性です。つまり、一つのビッグビジネスのチャンスが到来してきたとき、多くの競争相手がいるのです。

この競争相手に勝つためには戦略が必要です。真っ向勝負で勝負に勝てればよいですが、負ければ何も得るものがありません。

一方、ビッグビジネスを別の観点からとらえ、競争相手の少ない方法でビジネスを行い、勝つ方法もあるということです。

上述のゴールドラッシュの例では、多くの人が金鉱を掘り当てて大成功することを夢見ていたのに対して、金鉱堀に必要不可欠なスコップ販売で大成功した人は視点が異なり、競争相手の少ない所で勝負して勝ったのです。

現在でもスマートフォンやクラウドコンピューティングの普及という大きなビジネスチャンスがあります。このチャンスにどの切り口で参入するかが中小、零細企業の腕の見せ所だと思います。常に新しい切り口を見いだせるように努力していきたいと思います。

2011年8月26日金曜日

客家の教え 五十人の仲間が...

 「五十人の仲間が成功の核心となる」

成功するか失敗するかは、多くのすばらしい仲間の協力を得られるかどうかで決まるといっても過言ではありません。

運不運は全くの偶然ではなく、運も実力のうちなのです。運とは人が運んでくるという考え方があります。この幸運を運んできてくれる素晴らしい仲間を多く集めれば必ず成功するというのです。

多くの場合、全く努力をしない人に幸運の女神が微笑みかけることは稀で、精一杯の努力をした人に幸運の女神は微笑みかけるのです。

このように努力を惜しまない、幸運を運んできてくれる仲間を集めることが重要です。しかし、このような仲間は集めようと思って集めることは困難です。

では、どのようにしたら、このような素晴らしい仲間を集めることが出来るのでしょうか?私は、自分自身が世のため人のために一生懸命働いていれば自ずとこのような素晴らしい仲間が集まってきてくれると信じています。

類は友を呼ぶというように、善い行いをしている人の周りには善い人が集まり、悪い行いをしている人の周りには悪い人が集まってくるのだと思います。

まずは、自分が他人のために施せば、自ずと周りの人が自分に施してくれます。まずは、自分の身を正しくし、世のため人のため一生懸命働きたいと思います。

2011年8月24日水曜日

客家の教え お金に使われず...

 「お金に使われず、お金を働かせるべし」

事業においてお金儲けは第一の目標ではありません。事業の第一の目標は、世のため人のためになることを行うことです。その対価として、利益を得ることが出来るのです。

お金儲けを第一の目標にするとお金に使われることになると思います。つまり、お金儲けを第一の目標にすると、金儲けが目的であるため、その手段を選ばなくなってしまいます。

お金とは人を変える力を持っています。金儲けを目的として手段を選ばなくなると、善いことと悪いことの区別がつかなくなり、平気で悪いことを行い始めます。こうなると人間自分が道を踏み外していることに気付かなくなってしまいます。

上述のようにならないためには、事業の目的を明確にしておく必要があります。すなわち、事業においてどうしたら、世のため人のために尽力できるかを考え、文章化しておくのです。

事業の大義名分が明確になれば、働く目的も明確になり、事業のため悪いことをすることはありません。あくまでも世のため、他人のために働いた対価として利益が得られるのなら、事業は成功すること間違いありません。

なぜなら、世のため人のために働いていたら、その事業を応援する人はいても邪魔をする人はいないからです。事業は順調に成長し、拡大していくことなります。そして、世のため人のためになる事業は、広がっていくのだと信じています。

このような状態がお金を働かせている状態と言えるのではないでしょうか?お金に働かせて、さらに良い事業が拡大していく状態を目指して、頑張っていきたいと思います。

2011年8月22日月曜日

客家の教え 家族を蔑ろに...

 「家族を蔑ろにする者は成功せず」

現在の自分がこの世にあるのは、両親のおかげであります。両親がいなければ決して今の自分は、この状態でこの世には存在しません。

同様に父方の両親、母方の両親がいなくても、今の自分は存在しません。つまり、自分の先祖がいなければ、自分自身が存在しないのです。

自分自身が、この世にあることに感謝するということは、自分の両親、先祖に感謝するということであります。

このように自分自身を生んでくれた両親、先祖に感謝の意を持たず、蔑ろにする輩が人生において成功するわけがありません。

常に今の自分があることに感謝し、謙虚に人生を歩んでいくことが人生の成功への一歩だと思います。肝に銘じていきたいと思います。

2011年8月19日金曜日

客家の教え 小さい約束...

 「小さい約束こそが重要なり」

ちょっとした小さな約束を守ることは、意外に重要なことであります。小さな約束でもきちんと守っていくと、信用が生まれます。逆に小さな約束でも破り続けていくと信用を失っていきます。

大きな約束を守ることは当たり前のことで、小さな約束を守り続けることで相手との信頼関係を築くことが出来るのです。

人生、ビジネスにおいて大切なものに人脈があります。人生やビジネスは人と人との繋がりが広がることで深みを増していきます。

良い人脈は、信頼関係から築かれていきます。固い信頼関係が結ばれると、その後の関係はちょっとしたトラブルでも崩れることはありません。

人生、ビジネスにおいて重要な人脈は、小さな約束を守ることから生まれてくるといっても過言ではありません。常日頃から気を付けていきたいと思います。

2011年8月17日水曜日

客家の教え 準備していなかった...

「準備していなかったチャンスはリスク」

人生において大きなチャンスは何度かやってきます。そのチャンスを生かせると大きな飛躍を遂げることが出来ます。

しかし、チャンスは突然やってきます。この突然やってくるチャンスを生かすには事前にしっかり準備をしておく必要があるのです。

そして、しっかり準備をしてない時に、突然大きなチャンスがやってくると、このチャンスは大きなリスクに変わってしまうことがあります。

つまり、準備不足のためにチャンスを生かし切れず、逆に自分を危険に晒すことになるのです。チャンスとリスクは紙一重なのです。

この言葉が教えてくれていることは、いつやってくるかわからないチャンスに備えて、常日頃かた準備を怠るなということです。

大きな成功は、日頃の地道な努力から生まれるということです。自分の人生を左右するほどの大きな成功は運だけで得られるものではありません。大きなチャンスがやってきたときに備え、日頃から準備を整えてきた人のみに、大きな成功が得られるのだと思います。

時間は刻々と過ぎていき待ってくれることはありません。この日常で大きなチャンスを生かすための準備を整えられるよう頑張っていきたいと思います。

2011年8月15日月曜日

客家の教え ビジネスには...

「ビジネスには大義名分が必要なり」

ビジネスとは金儲けの手段ではありません。金儲けのためにビジネスを行っても決して成功はしません。ビジネスは世のため人のために行うもので、その結果の対価として報酬を得るのです。

このためビジネスには大義名分が必要です。大義名分とは、そのビジネスを行う明確な理由です。言い換えると働く人が、自分たちは何のために働くのかという疑問に答えられる公明正大な理由のことです。

世のため人のために働く大義名分がしっかりしている企業は、ビジネスにおいても大きな成功を収め、人々から感謝され、その対価として報酬を得、従業員に還元されるとともに企業の規模を拡大し、さらに世のため人のために働くことになります。

起業をするなら、なぜその事業を行うのか、大義名分を明確にする必要があります。私も色々考えました。そして、過去に成功した企業の大義名分を参考にしながら、基本理念という形で明確にしました。

基本理念には、経営理念、社是、経営基本方針を明確にし、自分たちが何のために働くのかを明確にしました。基本理念を明確にすることにより、判断基準も明確になっていきます。判断に迷うときは、この基本理念に基づいて判断していくようにしています。ビジネスには大義名分が必要なりは、ビジネスを始める際に重要な言葉です。

2011年8月12日金曜日

客家の教え 何を始めるかに...

 「何を始めるかに最も時間を費やすべし」

物事は一度始めてしまうと、なかなか止めることができません。何気なく始めて成功すればよいのですが、往々にしてうまくいかず止めたいのですが、色々な問題があり止められなくなることがあります。

前回の退却は重要な才能なりと同じように、一度始めるとなかなかやめられないので、何を始めるかをじっくりと考える必要があります。

一般的な製品開発においても、開発を始める前にフィジビリティスタディのように予備調査から、味見試験などを経て、開発を進めるか止めるかを決定します。

この際の予備調査が正しく行われないと、良い製品が出来ても売れないなどということになってしまいます。売れる製品を作るために、開発を始める前にじっくり考えないと失敗する良い例だと思います。

しかし、考えすぎて何も行動を起こさなければ、何も生み出すことはできないため、この辺のバランス感覚だ大事になってきます。

何を始めるかに最も時間はかけますが、考えるだけではなく、考えるための判断材料となるデータを収集する必要があります。

何を始めるかに最も時間をかけるとは、頭だけで考えるのではなく、考えるための判断材料を得る行動を伴う必要があります。

何を始めるかじっくり考え、何をするかを決めたら、必ず成功すると信じて、楽観的に実行に移す必要があります。何事も始めが肝心です。

2011年8月10日水曜日

客家の教え 退却は ...

「退却は重要な才能なり」

例えば、あるプロジェクトを開始しようとした場合、多くの企業では事前に綿密な調査を行った上で実施します。

このため一度開始したプロジェクトは止めることが困難です。止めるためには大きなエネルギーを要します。

もう駄目だと思っても、なかなかやめられないため、傷口を広げ、撤退するときには大きな被害をこうむることがあります。

このような事例からも、退却は重要な才能なりは的を射た言葉だと思います。止める決断ができる人は、勇気ある人だと思います。

始めたプロジェクトを止めることは、それまで投資してきたものをすべて無にすることにもなります。それでも、止めた方が良いと判断することは本当に勇気のいることです。

もう一つの考え方として、成功するまで諦めないという考え方があります。ちょっとやそっとの壁にぶち当たったぐらいで止めていては、大きな成功は得られないとの考え方です。

この二つの相反する考え方を、バランスよく判断に組み入れることが非常に難しいと思います。止めるか、止めないかが経営者の最大の仕事ではないでしょうか?

2011年8月8日月曜日

客家の教え 許すことを ...

「許すことを知れば運命は変えられる」

今の世の中で負の連鎖を引き起こすのは、憎しみではないでしょうか?憎しみが憎しみを生み、報復が報復を生んで、負の連鎖が続いていっていると思います。

しかし、どちらかが相手の過ちを許すことにより、関係が改善し、お互いが歩み寄り良い連鎖が生まれると思います。

例えば、戦争で家族を失えば、相手を恨み憎しみ、報復をするでしょう。しかし、報復で家族を失った人は同じように相手を恨み憎しみ、報復するでしょう。こうして負の連鎖は拡大しながら継続していくのだと思います。

この時、どちらかが寛容の心で相手の過ちを許し、諭すことが出来れば、相手も自分の過ちを認め和解できる可能性があると思います。

本来多くの人は、この寛容な心を持ち合わせており、平常時には上に書いたような冷静な対応をします。

しかし、戦争のような非常時に人は自分の心を見失うのだと思います。許すことを知れば運命は変えられるとは、意味深い言葉だと思います。

世界人類の平和と幸福を願うなら、皆がこの言葉を心に留めておけば、達成できるのではないでしょうか。

仕事の上でも、一つのミスで、ミスを犯したことを怒るのではなく、次にどうしたら同じようなミスをしなくなるかという観点で怒れば、人間関係は良いまま、仕事の効率は上がっていくと思います。

2011年8月5日金曜日

客家の教え 運は親切を ...

 「運は親切をした相手の背中からやってくる」

幸運は、親切をした相手そのものからやってくるものではありません。親切をした相手の親族や知り合い、あるいは、親切をしていたところを偶然見た人からやってくるのです。

人と人の出会いは全くの偶然ではなく、その出会いの中に何らかの意味があるのです。人知れず一生懸命頑張っている人は必ず報われます。

どこからか、頑張っている姿を見ている人が必ずいるので、いつかは報われるのです。また、他人に親切にする人にも必ず善いことがあります。

利他の心で他人に善いことをすると、それを偶然見ていた人や、親切にされた人の関係者が感謝の意を込めて、恩返しします。その恩返しは、直接的に恩返しされるというよりは、巡り巡って返ってくるものです。

この考え方に則ると、自分の運はある程度制御できるということになります。つまり、日頃から善い行いをしていると、いつか巡り巡って自分に善いことが返ってくるということです。

しかし、その善いことは恩返しを期待しての善い行いではなく、心が発する親切心からでる善い行いでなければ意味がありません。

周りで善いことばかり起きている人を良く観察すると、その人は、起きている善いこと以上に周りに対して善いことをしていることがわかると思います。

人間の行為には何事も因果関係があり、善い行いをすれば善い報いが、悪い行いをすれば悪い報いがあります。このことは、薩摩いろは歌でも似たような内容があったことからも普遍的に教えだと考えられます。

信じる信じないはあなた次第です。信じる人は、今日から自分の行いを見直してみてはいかがですか?

2011年8月3日水曜日

客家の教え

「客家」は「はっか」と読みます。簡単に言うと、客家とは、中国における民族名の一つで、主に華北部から移住してきた漢民族の一派だと考えられます。

客家からは政財界において多くの成功者を輩出しています。例えば、中国共産党の鄧小平氏、台湾総統の李登輝氏、中国革命の孫文氏などです。

この客家には、客家の教えと呼ばれる言い伝え、教訓があります。薩摩いろは歌同様、現代に通用する普遍的な教えで興味深い内容です。会社経営のみならず、人生の教えとして大変参考になります。

客家の教えには多くの教えがあります。次回からは、その教えの中から一つずつ取り上げ、紹介していきたいと思います。皆さんのご参考になれば幸いです。

2011年8月1日月曜日

薩摩(島津日新公)いろは歌 まとめ

           

薩摩(島津日新公)いろは歌をまとめてみました。各歌をクリックすると、解説と私の考えを表示します。現代において大いに参考になる薩摩(島津日新公)いろは歌です。ご参考になれば幸いです。

いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし

楼の上もはにふの小屋も住む人の心にこそはたかきいやしき

はかなくも明日の命をたのむかな今日も今日もと学びをばせで

似たるこそ友としよけれ交らばわれにます人おとなしき人

ほとけ神他にましまさず人よりも心に恥ぢよ天地よく知る

下手ぞとて我とゆるすな稽古だにつもればちりも山とことの葉

科ありて人をきるとも軽くすないかす刀もただ一つなり

知恵能は身につきぬれど荷にならず人はおもんじはずるものなり

理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき心の駒の行くにまかすな

ぬす人はよそより入ると思うかや耳目の門に戸ざしよくせよ

流通すと貴人や君が物語りはじめて聞ける顔もちぞよき

小車のわが悪業にひかれてやつとむる道をうしと見るらむ

私を捨てて君にし向はねばうらみも起り述懐もあり

学文はあしたの潮のひるまにもなみのよるこそなほしずかなれ

善きあしき人の上にて身を磨け友はかがみとなるものぞかし

種となる心の水にまかせずば道より外に名も流れまじ

礼するは人にするかは人をまたさぐるは人をさぐるものかは

そしるにもふたつあるべし大方は主人のものになるものと知れ

つらしとて恨みかへすな我れ人に報ひ報ひてはてしなき世ぞ

ねがわずば隔てもあらじいつわりの世にまことある伊勢の神垣

名を今に残しおきける人も人心も心何かおとらん

楽も苦も時すぎぬれば跡もなし世に残る名をただ思ふべし

昔より道ならずしておごる身の天のせめにしあはざるはなし

憂かりける今の身こそはさきの世のおもえばいまぞ後の世ならむ

亥にふして寅には起くとゆふ露の身をいたづらにあらせじがため

のがるまじ所をかねて思いきれ時に到りて涼しかるべし

思ほへず違ふものなり身の上の欲をはなれて義を守れひと

苦しくとすぐ道を行け九曲折の末は鞍馬のさかさまの世ぞ

やわらぐと怒るをいわば弓と筆鳥と二つのつばさとを知れ

万能も一心とあり事ふるに身ばしたのむな思案堪忍

賢不肖もちひ捨つるといふ人も必ずならば殊勝なるべし

無勢とて敵をあなどることなかれ多勢を見ても恐るべからず

心こそ軍する身の命なれそろゆれば生き揃はねば死す

回向には人と我とをへだつなよ看経はよししてもせずとも

敵となる人こそはわが師匠ぞとおもひかえして身をもたしなめ

あきらけき目も呉竹のこの世より迷はばいかに後のやみぢは

酒も水流れも酒となるぞかしただ情あれ君がことの葉

聞くことも又見ることも心がら皆まよひなりみな悟りなり

弓を得て失ふことも大将の心一つの手をばはなれず

めぐりては我が身にこそは事へけれ先祖のまつり忠孝の道

道にただ身をば捨てんと思ひとれかならず天のたすけあるべし

舌だにも歯のこはきをば知るものを人は心のなからましやは

酔える世をさましもやらでさかづきに無明の酒をかさぬるは憂し

ひとり身あはれと思へ物毎に民にはゆるすこころあるべし

もろもろの国や所の政道は人に先づよく教へ習はせ

善に移り過れるをば改めよ義不義は生まれつかぬものなり

少しきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなき十六夜のそら

2011年7月29日金曜日

薩摩いろは歌 す

 「少しきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなき十六夜のそら」

「多少少なくても、満足することを覚えなさい。満月も翌日には少し欠けた十六夜の月になるではないか。」

人間「足るを知る」ことが大事です。人間の欲望は際限がなく、満足することを知らなければ、満たされた欲望は、さらなる欲望を呼び起こし、満足することはありません。

しかし、実は欲望は完全に満たされなくても、自分が満足する気持ちを持てば、幸福感を味わうことが出来るのです。

人は大きな欲望を満たすことで幸福感を感じると考えがちですが、私は小さくても幸福感を多く感じた人が本当の幸せ者だと思います。

そして、小さな幸福感は、自分の心の持ち方で感じ方が大きく変わるのだと思います。例えば、宝くじで百万円当たっても幸福感を感じない人もいれば、昼食においしいご飯を食べただけで幸福感を味わう人もいます。

人は、小さな幸福感を感じ続けると、心が豊かになり、さらに幸福感が高まるだろうと思います。一方、幸福感を味わえない人は、常に渇望感に苛まれ、いつまでたっても幸福感を得られず、自分は不幸だと思い始めます。

きっと、同じ人生を歩んでも、前者は幸せな一生だったと満足して人生を終えますが、後者はいいことがない不幸な人生だったと人生を終えることになるでしょう。

私は同じ人生なら、前者のように幸福感を味わう人生を送りたいと思います。

2011年7月27日水曜日

薩摩いろは歌 せ

「善に移り過れるをば改めよ義不義は生まれつかぬものなり」

「悪の道ではなく、善の道を進み、これまでの過ちを認め、改心せよ。義不義は生まれつきのものではない。」

もし、自分が悪いことをしたと思ったら、直ちに過ちを改心し、善い行いをするように努めるべきです。義不義というのは、生まれつきのものではなく、その人の心の持ち様でどちらにもなるのです。

どんなに悪いことをしてきた人でも、心から反省し、自分の行動を悔い改めようとする人は、やり直しがきくと思います。

その一方、自分はどうしようもない人間なので、悪いことを続けていくのだと、あきらめたような人には、良いことは何も起こらないと思います。

人は、心の持ち様で如何様にも変わることが出来るのです。心の底から思ったことは必ず実現可能だと思います。

私は、もし実現できないのなら、それは自分の思いが足りないか、努力が足りないためだと考えるようにしています。

人は弱いもので、自分の中で一生懸命努力した思いがあるのに、実現できないと、これはできないことなのだとあきらめてしまいがちです。

しかし、世の中の大事を為した人たちの話を聞くと、どんな苦境に立たされようが、あきらめずに努力し続けた人が大事を為したのだと感じます。

真の苦境に立たされた時に自分の考え方が、今後の人生に大きく影響を与えることを意識して、頑張っていきたいと思います

2011年7月25日月曜日

薩摩いろは歌 も

「もろもろの国や所の政道は人に先づよく教へ習はせ」

「諸所、国や地方の政治を行う上では、法律や規律について、人民に周知徹底し、教育することが重要である。」

政治を行う上で、法律や条例をはじめ、各種規則を制定することは重要であります。規則のない世界では、多くの場合無法地帯となり、治安は悪くなります。

しかし、規則を制定するのは、制定することが目的ではなく、人々が平和に暮らせる世にすることが目的であり、このためには、規則の内容と意図を人々に周知徹底し、教育することが重要となってきます。

規則を制定すると、本来の制定目的を蔑ろにし、文面だけの意味で裁きを下す危険性があります。政治を行うものは、このことを熟慮し、規則制定の意義を周知徹底することに精力を費やすべきです。

例えば、道路交通法は、急速に増加する自動車から弱者である歩行者等を守ることが目的だと思います。交差点での一旦停止で、タイヤが止まったか止まらなかったかの違反者を検挙するのが目的ではなく、全く減速することなく、交差点に突っ込み、大事故になるような車を検挙することが目的だと思います。

規則の解釈のされ方は、環境や時代背景などで大きく変化していきます。文字面だけで議論するのではなく、規則の制定目的に則った判断が重要だと思います。

現在、裁判員制度が採用されていますが、この目的の一つは、裁判所の判決と国民感情に開きがあるとして、国民感情を裁判判決に反映させることがあります。

裁判所は、厳格に法を解釈して、法に則って判決を出そうとします。しかし、法は完全ではありません。国民目線では、おかしいという判決がいくつかありました。

このようなギャップは、法の解釈が制定目的から判断するよりも、文章の意味から判断されたことが大きな原因の一つだと思います。

裁判所の常識が、国民の常識から離れていってしまった結果だと思います。裁判員制度は始まったばかりで、まだ制度として熟成していませんが、上記のようなギャップを埋めてくれる一つの解決手段だと思います。

世の中をさらに良くするための試みとして、温かく見守っていきたいと思います。

2011年7月22日金曜日

薩摩いろは歌 ひ

 「ひとり身あはれと思へ物毎に民にはゆるすこころあるべし」

「身寄りのない老人や孤児などは可哀想だと思いなさい。人民に対しては寛大な心で接するべきだ。」

身寄りのない老人や孤児のように社会的弱者に対しては、慈悲を持って寛大な心で接するべきです。いつの世も社会的弱者は存在します。

政治を行うものは、常にこのような社会的弱者に対して、寛大な心を持って接する必要があります。社会的弱者は自分自身で生きていくことが困難であり、手助けが必要なのです。

現在の東日本大地震の被災者などは、まさにこの社会的弱者だと思います。自然災害で大切な家族、財産を失い、自分自身では立ち直れない方々が多くいらっしゃると思います。

でも、わずかでも助けの手を差し伸べるだけで立ち直れる方々もたくさんいるのです。自分自身だけでは、困難な将来も、多くの人々のわずかな助けで多くの人が救われるのだと思います。

上の歌のように、まずは政府が率先して被災者を救済し、我々民間人は、僅かでも自分のできることで、継続的に被災者に協力していくことで、復旧は進んでいくのだと思います。

いまこそ、共存という考え方が重要な時期だと思います。自分にできることを良く考えていきたいと思います。

2011年7月20日水曜日

薩摩いろは歌 ゑ

「酔える世をさましもやらでさかづきに無明の酒をかさぬるは憂し」

「深酒で酔った人が酔いを覚ますことなく、さらに盃を重ねていくように、混沌とした世の中で、先を見通すことなく、酔いを深めるような行為を重ねていくことは憂うべき状態である。」

深酒で酔いつぶれた人は、前後不覚となり、先の見通しなど考えずに、ただ盃を重ね、さらに酔いを深めていってしまいます。

同様に、混沌とした世の中にあっても、先の見通しをもって、対策を打っていかないと、混沌とした世の中がさらに混沌とし、混迷を深めてしまいます。

自分が泥酔していると、自分が泥酔していることを自覚できなくなります。酔っ払いが、自分は酔っていないという場面には良く出くわします。

この状態では、自分は素面のつもりなので正しい判断ができると勘違いしてしまいます。そのため、もう限界を超えているのにさらに酒を飲んで状況を悪くすることがままあります。

しかし、酔いがさめ、昨夜の自分の行動を思い出すと、なんと愚かなことをしてしまったのだろうと反省します。

このように、混沌とした世の中においては、正しい判断が出来ず、誤った道を突き進んでいく危険性を孕んでいます。

このような混沌とした状況でこそ、状況を客観的に分析し、先の見通しを立てて対処する能力がリーダーには求められます。

このような能力は一朝一夕には備わりませんが、常に自分を客観的に見る習慣を続けることで、あらゆる場面で客観的判断を下せるようになるのだと考えています。

常に客観的な自分、世の中の自分を見られるように努力していきたいと思います。

2011年7月15日金曜日

薩摩いろは歌 し

「舌だにも歯のこはきをば知るものを人は心のなからましやは」

「舌でさえ、歯の怖さを知っているのに、人は他人の心を理解せずに善いものだろうか?(いや善いわけがない。)」

常に歯と交わっている舌は、歯が硬く、強く、恐ろしいものであることを良く理解しています。では、人間は、いつも交わっている他人の心情を理解できなくて善いのでしょうか?いや善いわけはなく、理解すべきであります。

人は人生を潤滑に生き抜いていくために、自分と接する人たちの心情を良く汲み取って生活する必要があります。

世の中は善い人ばかりでもないし、自分と同じような考えの人ばかりでもありません。そうであれば、自分と接する人達が、どのような考えのもとに生きているのか理解した方が、スムーズに生活できます。

自分と接する人は、自分自身の利益のみを考える人なのか?他人の利益のために自分自身を投げ打つことが出来る人なのか?

自分に近寄ってきて褒めるのは、自分のことを本当に尊敬していってくれているのか?下心があって行っているのか?

自分に嫌なことを言ってくる人は、自分のことが嫌いで言っているのか?自分の将来を心配して忠告してくれているのか?

表面ばかりを見るのではなく、相手の真意を汲み取ることが重要です。人はとかく一面的なものの見方しかできないものです。

できるだけ、客観的に人を見る目を養っていきたいと思います。

2011年7月13日水曜日

薩摩いろは歌 み

 「道にただ身をば捨てんと思ひとれかならず天のたすけあるべし」

「人の道を全うするためなら、我が身を投げ打つ覚悟で事に当たりなさい。そうすれば必ず天の助けがある。」

人として正しい道を進むなら、どんな困難、障壁があろうと、自分の命を懸けて突き進むべきです。その道が正しければ、必ず天、あるいは周囲からの助けがあるのです。

奇跡という言葉があります。本来ありえないような事象が起こった時に、奇跡が起こったといいます。しかし、奇跡は偶然に起こるものではありません。

人には、しがらみというものがあります。このしがらみのために、人として正しい道を踏み外すことがあります。しがらみは大きな障壁となることがあります。

しかし、このしがらみにも負けず、人として正しい道を進めば、多くの場合、さらなる困難、障壁が待ち受けています。この困難、障壁を乗り越えるのは並大抵のことではありません。

このような状況に陥った時、正しい道を進んでいれば奇跡は起きるのです。解決不可能と思われた困難、障壁が解決したりするのです。

でも、これは本当は奇跡でも何でもないのです。正しい道を進んできた人の強い意志が、困難、障壁を解決したのです。

傍から見れば、奇跡と思えることも、正しい道を、強い意志で進んできた人にとっては、必然であったりするのです。

大事なことは、客観的に見て人として正しい道を貫けば、必ず道は拓けるということです。

2011年7月11日月曜日

薩摩いろは歌 め

 「めぐりては我が身にこそは事へけれ先祖のまつり忠孝の道」

「物事は何事も、巡り巡って自分に還ってくるものである。先祖を敬い祀り、忠孝の道を歩む人は、自分の子孫も自分のことを敬い祀ってくれるのである。」

この歌は、「情けは他人のためならず」と同意の歌だと思います。他人に情けをかけるのは、その人のためだけに情けをかけているのではなく、巡り巡って自分に還ってくる、すなわち、自分に情けをかけているのです。

先祖、祖父母、父母を尊敬し愛する人は、その背中を見て育った子供たちから尊敬され、愛されることになります。

逆に先祖、祖父母、父母を粗末に扱うような人は、同様に自分の子供たちから粗末な扱いを受けることになるでしょう。

この世の中は、自分の振る舞いが、巡り巡って、必ず自分のもとに還ってくるようにできているのです。

確かに、短いスパンで考えれば、自分の振る舞いが自分に還ってくることは実感できないでしょう。しかし、長いスパンで考えれば、必ず自分に還ってくることが理解できます。

この考え方に則れば、誰かが見ていようが、見ていまいが、善い行いをし続ければ、必ず、自分に善いことが起こるといえます。

この考え方をベースに生きていけば、人の目を気にすることなく、善い行いをすることが出来、最終的には幸福な人生を歩むことが出来るのではないでしょうか?

2011年7月8日金曜日

薩摩いろは歌 ゆ

「弓を得て失ふことも大将の心一つの手をばはなれず」

「弓の道を究めても、戦で負けることがあるのは、大将の心の持ち方で決まるのである。」

どんなに大将自身が武を究めて、兵士たちを訓練して、優れた軍隊を作り上げても、大将が常に戦況を分析して、兵士たちの士気を観察して、その時に最も適した作戦を適用しなければ戦に負けてしまいます。

勝負の行方は、大将の心の持ち方、考え方で決まるといっても過言ではありません。大将は、時々刻々と変わる戦況を常に把握するとともに、自分の兵士の士気や疲弊具合も把握する必要があります。

どんなに戦況が良くても、兵士が疲弊し、士気が上がらない時に、突撃命令を出しても、兵士は思い通りに戦ってくれません。

逆にどんなに戦況が悪くても、兵士が疲弊していても、大将を信じ、兵士たちの士気が高ければ、戦況をひっくり返すほどの働きをしてくれるときがあります。

大将たる者、常日頃から兵士から尊敬されるような振る舞いを心掛け、自分のためではなく、世のため、人のために尽くす努力を怠ってはいけないと感じます。

なかなかできることではありませんが、常に頭に入れておきたい事柄です。

2011年7月6日水曜日

薩摩いろは歌 き

 「聞くことも又見ることも心がら皆まよひなりみな悟りなり」

「聞くもの、見るもの全て、心の持ち様で変わる。場合によっては迷いになるし、場合によっては悟りにもなる。」

人は心の持ち方次第で、耳で聞こえるものや目で見えるものの受け取りが大きく変わってきます。心の持ち方次第では、聞いたことや見たものが迷いの種になる場合もあれば、悟りを開いたように、目の前が明るくなる場合もあります。

常に問題意識を持って、目の前の出来事を注意深く見ている人は、見聞きしたことが悟りのもとになるでしょうし、漠然と生きている人にとっては、見聞きしたことが迷いの種になるでしょう。

はじめは、常に問題意識をもって生活することが苦と感じるでしょう。心の休まる暇がないと感じるでしょう。

しかし、これは習慣化されると苦にもならず、自然とできるようになるものです。常に問題意識をもって生活できるようになれば、毎日が新しい発見との出会いになり、人生が豊かになります。

常日頃から、問題意識を持って、新たな発見と出会えるように心掛けていきたいと思います。

2011年7月4日月曜日

薩摩いろは歌 さ

「酒も水流れも酒となるぞかしただ情あれ君がことの葉」

「場合によっては、酒も水のように感じるし、川の流れが酒と感じる場合もある。君主たる者、部下にかける言葉には常に情けをかけよ」

普通は、酒を振る舞えば、気持ちも高ぶり、士気が上がるものでありますが、酒を与えても水を飲むがごとく、しらける場合があります。

逆に、酒の代わりに水を与えても、気持ちが高揚し、士気が上がる場合があります。この差は、与えるものの与え方の差によるものであります。

君主が士気を上げるために、酒を振る舞ったとしても、部下のこと、国のことを思い、情け深き心で振る舞えば、部下たちの士気は上がり、気持ちも高ぶってくるでしょう。

しかし、わが身のことのみを思い、部下や国のことを顧みず、ただ士気を上げるために酒を振る舞っても、部下たちの士気は上がらず、ただ水を飲んでいるがごとく冷静でしょう。

逆に、君主が部下のこと国のことを思い、情け深く接すれば、単なる水を与えても、一流のお酒のように感じ、士気も上がります。

つまり、上司の日頃の振る舞いによって、同じ行為を行っても、部下の感じ方は異なるということになります。

リーダーたる者、自分の保身を思うのではなく、部下や会社、社会のことを思い、大局観に立って考えなければ、人はついてこないということだと思います。

一人でも二人でも部下のいる上司は、常にこのことを頭の片隅に入れておく必要があると思います。

2011年7月1日金曜日

薩摩いろは歌 あ

「あきらけき目も呉竹のこの世より迷はばいかに後のやみぢは」

「明るく見通しのきくこの世で迷っていたら、死後の暗闇ではどうなることか」

煩悩の多いこの世では、迷い苦しむこともあるでしょう。しかし、来世は暗闇で、先の見通しは全く利かず、もっと迷い苦しむことになるかもしれません。

人は、生前から仏教に励み、悟りを開く努力をした方が良いという、仏教上の教えに沿った戒めです。

暗闇で一寸先もわからないようなところで、迷わず、自分の道を進むことが出来るように、生前から訓練していれば、日の光がいっぱいで、先を見通すことのできる現世で迷い苦しむことはなくなるといえます。

人は常に将来に備えて、日々精進することが大事です。逆にいうと、日々精進し、将来に備えておけば、何か大事があっても慌てることなく、冷静に対処できるようになるといえます。

目先のことばかりで判断するのではなく、将来を見据えて、日々精進していきたいと思います。

2011年6月29日水曜日

薩摩いろは歌 て

「敵となる人こそはわが師匠ぞとおもひかえして身をもたしなめ」

「敵であっても、反面教師として自分の先生になるものである。反面教師の行いをみて、自分のふるまいを見直しなさい。」

憎い敵であっても、見方を変えれば立派な反面教師になります。他人の振り見て我が振り直せとも言うとおり、常に自分の振る舞いが正しいか顧みるようにすべきです。

戦っている敵であっても、人は人です。自分がされたくないことを、相手の敵にすることが本当に必要かということまで、考えたうえで行動すべきです。

人は常に人として何が正しいかを判断基準に行動すべきで、一時の感情に押し流されて行動すると、判断を誤ってしまいます。

また、情けは他人のためならずともいいます。他人にかけた情けは、巡り巡って、最終的には自分に返ってきます。

常に人として正しい振る舞いをしていれば、返ってくる情けも人の道から離れたことはないでしょう。しかし、一時の感情で誤った判断で行動すると、いつかはわが身に同様の振る舞いがなされることになります。

人は自分一人の時でも、常に人として何が正しいかを判断基準に振る舞う必要があることを肝に銘じて頑張りたいと思います。

2011年6月27日月曜日

薩摩いろは歌 え

「回向には人と我とをへだつなよ看経はよししてもせずとも」

「死者の供養は敵味方をわけ隔てるな。読経はしても、しなくても良い。」

回向(えこう)とは、死者の仏事供養を行うことです。また、看経(かんきん)は読経、つまりお経を読むことです。

ここでは、戦いで亡くなった兵士の供養は、敵味方の分け隔てなく、きちんと行いなさいと言っています。そのとき、読経するしないは問題ではありません。

死者に対しては、敵も味方も、尊い命が奪われたのだから、敬意をもって、仏事を行うのが、生き残った者の勤めであることを説いています。

戦いにおいては、意見の違いにより殺し合いをしても、死んでしまえば敵も味方もなく、同じ人の死として尊く弔う必要があります。

同様に、お互い戦った者同士でも、戦いが終われば同じ人間同士なのだから、理解しあえるはずであります。

世界では、今でも内戦や、テロが多発しています。戦争は、お互い大義名分のもとに行っています。双方が自分の正当性を主張しあいます。

そして、戦争という暴力のもとに人の尊い命が失われていくのです。戦争で家族を失った人は、敵を恨み、復讐をします。復讐されて家族を失った人は、また敵を恨み復讐し、負の連鎖が続きます。

結局戦争や復讐は、人を悲しませることにはなっても、問題を解決する手段にはならないのです。人は、皆頭の中では、それを理解しているのですが、いざ、身内を殺されると、とても冷静ではいられなくなるのだと思います。

でも、誰かがこの連鎖を断ち切れば、世界の平和は必ず訪れるのだと思います。その誰かは、現在争いをしている人の中に必ずいるはずです。そして、近い将来世界に平和を訪れると信じたいです。

2011年6月24日金曜日

薩摩いろは歌 こ

「心こそ軍する身の命なれそろゆれば生き揃はねば死す」

「戦いにおいては、兵士の心が勝敗を決する。皆の心が揃えば勝ち、生き残れるが、揃わなければ負けて、命を失うことになる。」

戦いにおいては、全員が心を一つにし、考え方を揃えることが重要であります。例えば、大きな岩を動かす時に、皆が同じ方向に力を加えれば、大きな力となり、岩を動かすことができます。

しかし、皆がばらばらの方向に力を加えれば、力は分散するとともに、場合によっては相殺され、全体としては、小さな力しか加わらず、岩を動かすことはできないでしょう。

同様に、心も同じで、一つの目標に向かって、全員の心が揃えば大きな力となり、大事を成し遂げることが出来ます。

しかし、一人一人が自分の利益だけを考え、ばらばらの考えを持って事に当たれば、その仕事は決してうまくいきません。

もっとも顕著な例がスポーツだと思います。野球やサッカーなどのチームプレーでは、選手一人一人が、共通の目標を持ち、一心不乱に練習を重ねるチームは良い結果を残せますが、自分のことを中心に考える選手の集まりは、いくら個人的に高い能力を持っていても、途中で挫折してしまいます。

大きなことを成し遂げるためには、一人の力ではできませんが、多くの人を集めただけでも成し遂げることはできません。

多くの有志を集めたうえで、皆の考え方を揃え、統一することが重要なのです。いつか、従業員を雇えるようになったときは、このことを肝に銘じて頑張っていきたいと思います。

2011年6月22日水曜日

薩摩いろは歌 ふ

「無勢とて敵をあなどることなかれ多勢を見ても恐るべからず」

「敵の人数が少ないからと言って、侮ってはいけない。また、敵の人数が多いからと言って恐れる必要はない。」

勝負の行方は、敵の人数の多い少ないで決まるのではありません。勝負は、自分たちの気の持ち方や、日頃の鍛錬など、自分たちの要素で決まるのです。

ですから、敵の人数が少ないからと言って侮れば、勝負に負けることもあるでしょうし、敵の人数が多いからと言って、恐れることなく、一致団結し、気勢を上げて戦えば十分勝機はあるのです。

この歌では、勝負時の心得を端的に表しています。前半の「無勢とて敵をあなどることなかれ」では、勝負における油断が結果に大きな影響を与えることを教えています。

勝負の世界では、偶然の勝利はあっても、偶然の敗北はないといわれます。運よく勝つことはあっても、運が悪く負けることはないのです。敗北には必ず原因があるという考え方です。

たとえば、奇跡的な事象で敗北を喫した場合、あれはしょうがないと考えがちですが、実際には、その奇跡的事象を引き起こしていたのは、自分たちなのです。

このように、敗北の原因を他人のせいにするのではなく、自分たちの中に見つけることで、反省し、改善することにより、自分たちは強くなっていくのです。

同様に、大人数の敵のように強敵と対峙すると、勝てる気がせず、気持ちの上ですでに負けてしまうことがあります。

しかし、気持ちの上で負けていると、勝負に勝つことは、まずありません。強敵を目の前にしても、相手の弱点を観察し、戦略を練って、一致団結して戦えば勝機は必ずあるのです。

勝負の結果は、相手によるのではなく、自分の中に原因あるのだということを肝に銘じたいと思います。

2011年6月20日月曜日

薩摩いろは歌 け

「賢不肖もちひ捨つるといふ人も必ずならば殊勝なるべし」

「賢者を用いて、愚者の首を切るという人も、必ずそうしているなら、誠に素晴らしいことである。しかし、実際にはそのようにうまくいくものではない。」

優れた人を登用し、役に立たない人の首を切っていけるのであれば、仕事は常にうまくいくでしょう。しかし、実際にはそのようにうまくいくことばかりではありません。

まさに言うは易く行うは難しです。人事に関しては、適材適所が理想であり、ある分野では役に立たない人でも、ある分野では優れた才能を発揮することは良くあることです。

各個人の才能を見極めて、その才能を生かせる部署に配置することもリーダーの役目の一つです。

しかしながら、全く役に立たない人がいます。それは、才能のない人ではありません。人は何かしら才能があるものです。では、どのような人が役に立たないのか?

一言でいうと、やる気のない人です。やる気のない人向上心のない人は、仕事ができないばかりではなく、周りへも影響を与えることが多々あります。

このような人は、辞めてもらいたいのですが、実際にはなかなか辞めてもらえません。自分の仕事や地位にしがみついて、自分を守ることにはやる気満々だったりします。

人を見極めるということは大変難しく、また、人は時間とともに、あるいは環境とともに変化していくので、この変化を見逃さないことも大事です。

このように書いてきたものの、頭では分かっていても、実際に行動に移すのはエネルギーがいるものです。肝に銘じたいと思います。

2011年6月17日金曜日

薩摩いろは歌 ま

「万能も一心とあり事ふるに身ばしたのむな思案堪忍」

「万能一心とあるように、自分の能力の高さを驕り高ぶってはいけない。常に思いを巡らせ、耐え忍ぶことが重要である。」

あらゆる能力に長けて万能であっても、その心根が悪ければ意味がありません。さらに言うと、能力が高く、心根が悪ければ、逆に悪の大きさが大きくなってしまうこともあります。

能力が高い人は、自分の能力を鼻にかけて傲慢になるのではなく、常に思慮深く考え、耐え忍ぶ態度が必要であります。

能力が高く、謙虚で人の話に耳を傾け、常に努力を怠らない人は、周りの協力も得られた上で、さらに大きな仕事ができるようになるのです。

得てして人は、能力が高まってくると、他人を見下し、自分が偉くなったような錯覚に陥ります。しかし、自分の能力が高くなっても、人としては何も変わらないのです。

ここで勘違いをすると、周りの人の協力が得られなくなり、仕事がうまく回らなくなってきてしまいます。

自分の能力を高めると同時に、自分の心も高めなければ、仕事はうまく回らないのです。

また、能力の高い人が悪いことを考えると、その悪さはとてつもなく大きな悪になってしまいます。世の中の犯罪ニュースを聞いていると、それだけ優秀なら、もっと世のため人のために使えば、自分も幸せになれただろうにと思うようなことがたくさんあります。

自分が努力して手に入れた高い能力ではありますが、その高い能力は世のため人のために使用してこそ、価値ある能力だと思います。心に留めておきたいことです。

2011年6月15日水曜日

薩摩いろは歌 や

「やわらぐと怒るをいわば弓と筆鳥と二つのつばさとを知れ」

「やわらぐ(優しさ)と怒る(厳しさ)を例えるなら、弓(武)と筆(文)のようなものである。いずれも、鳥の翼が二つあるように、欠くことのできないものである。」

ここでは、人としてのバランス感覚の重要性を述べていると思います。人にとって、優しさと厳しさを併せ持つことは重要であります。いずれか、片方だけではうまくいかないのです。

同じように、文武両道も重要であります。勉強ばかりで運動が出来なければ、バランスを欠きます。同様に運動だけできて、勉強ができないのも大成しません。

これらのものは、鳥の翼や車の両輪のように、二つあって役に立つものです。確かに一芸に秀でることで、運動だけ、勉強だけで大成する人もいます。

しかし、これは結果論です。人は、勉強ができて運動ができないのなら、運動も頑張るべきです。逆に運動だけできて、勉強ができない人は勉強も頑張るべきです。その過程で気付くことが多くあります。

多くの成功者は、両方を兼ね備えています。スポーツ選手で頭も良い人は、長期間にわたり活躍します。しかし、頭の回転があまり良いといえない選手は、短期間で活躍の場がなくなることが多いです。

逆に、学者などの中には、頭が良いのはわかるが、周りが見えていないために、周囲の賛同を得られない人が多くいます。

頭がよく、運動もできる人は、スポーツの中で周囲を見る目を養っているために、周囲の状況を理解して、周囲に合わせて説明します。

このような人は、周囲からの賛同を得やすく、物事がスムーズに進むことが多いです。いわゆるバランス感覚に長けた人です。

世の中で成功する人は、優しさと厳しさ、文武、大胆さと緻密さ、決断の速さと熟考などのように、一見相反するようなことを併せ持っています。

表があれば、必ず裏があるように、物事の表裏を理解して、バランス感覚に優れた人を目指したいと思います。

2011年6月13日月曜日

薩摩いろは歌 く

「苦しくとすぐ道を行け九曲折の末は鞍馬のさかさまの世ぞ」

「苦しくても、真直ぐ正道を進みなさい。困難を避けて九十九折のように進んでいては、暗黒に真っ逆様に落ちていくようなものだ。」

どんなに苦しくても、常に正道を進むことが重要です。困難を避け続けたり、曲がったことを行えば、その先には暗黒に落ちてしまいます。

人は、困難に遭うと、始めは立ち向かおうとするのですが、大きな困難で容易に解決できないと、回避しようとしたり、邪道な方法で解決することを考え始めます。

困難を回避したり、邪道な方法で困難を解決すると、その場は何とかなったような気がしますが、根本的な解決には到りません。

そして、回避し続けたり、邪道な方法を使い続けていると、全く身動きが取れなくなるような、さらなる困難に襲われてしまうのです。

こうなると、解決は本当に困難になります。初めの困難に遭遇したとき、正道を突き進んでいけば、困難は必ず解決できるのです。

人間は弱いものです。ちょっと油断すると易きに流れてしまいます。常日頃から、正道を貫くことを意識することが重要だと思います。

常に正しい心を持ち続ける努力をしていきたいと思います。

2011年6月10日金曜日

薩摩いろは歌 お

「思ほへず違ふものなり身の上の欲をはなれて義を守れひと」

「人は思わず道を間違えるものである。私利私欲を捨てて、正義を守りなさい。」

人は知らず知らずのうちに、人を道を外れてしまうことがあります。その大きな原因は、私利私欲のために動いてしまったことがきっかけです。

私利私欲は人の道を踏み外すもとになります。欲を離れて、常に正義を守ることを心がけていれば、人としての道を踏み外すこともないでしょう。

人は大きな決断をする際に、無意識のうちに自分のためになるように決断しまいがちであります。しかし、自分のために決断し、為したことは周囲の人の賛同も得られません。

正義とは、世のため人のためにをベースに決断することといえるのではないでしょうか?常に他人を思いやり、世の中の役に立つことを基本に行動していれば、周囲の賛同を得ることは難しくありません。

周囲の賛同を得られれば、事は成ったも同然です。つまり、世のため、他人のためという、正義を守って行動すれば、周囲の人の賛同も得られて、物事はうまく運ぶということを端的に表していると思います。

自分のためを思って行ったことは、結果的に自分のためにはならず、他人のこと、世の中のことを思って行ったことは、結果的に自分のためにもなるのだと思います。常に正義を心にとどめておきたいと思います。

2011年6月8日水曜日

薩摩いろは歌 の

 「のがるまじ所をかねて思いきれ時に到りて涼しかるべし」

「逃れられないような切羽詰まった状況を、日頃より想定して、良く考えておきなさい。そうしておけば、そのような状況が訪れたとしても、慌てふためくようなことにはならない。」

常日頃より、どうにもならないような状況を想定して準備おけば、実際に切羽詰まったような切迫した状況に陥ったとしてもあわてず行動できることを諭しています。

まさに備えあれば憂いなしです。人は自分では考えてもいなかったことに出くわすと、思考が完全に止まって、頭も体も止まってしまうことがあります。

しかし、どんなにひどい状況に陥ったとしても、事前に想定し、準備しておけば、即座に対応し、状況に合わせた行動を起こすことが出来ます。

今回の東日本大震災における原子力発電所の事故も、想定を超えたことが起こり、対応策が準備できていなかったために、対応が後手後手に回り、被害を収束できていないと考えることもできます。

事前に万全の準備するためには、如何に正確に将来の事象を予測できるかにかかってきます。これは、非常に困難なことです。

しかし、難しいけどやらなければならないことといえます。今回の事故を教訓に、予想される事象は常に最悪のケースを想定して準備する必要があるということです。

今回の地震で、やりすぎるということはないということがわかりました。しかし、その準備は、合理的でなければなりません。

100年に一度の大災害に対しても準備は必要ですが、100年に一度の災害が毎年来るかもしれないとの想定で準備していたのでは、何もできなくなります。

やはりバランス感覚というものが必要です。100年に一度の災害に備えながら、どのようにして日頃生活できるかを考える必要があります。

言葉でいうのは簡単ですが、実行するのが難しいこのことを、常に頭に入れて行動していきたいと思います。

2011年6月6日月曜日

薩摩いろは歌 ゐ

「亥にふして寅には起くとゆふ露の身をいたづらにあらせじがため」

「亥の刻(午後10時頃)に床について、寅の刻(午前4時頃)に起きるのは、夕露のように儚いこの身を無駄にしないためである。」

朝早くに起きて、夜遅くまで起きて、自分の勤めをしっかり果たしなさいということを表しています。人は、早朝から夜遅くまで勤勉に働くことが重要です。

人は、日々のたゆまぬ勤労によって成長し、また、大きな成果を上げることが出来るのです。無駄に夜更かしをしたり、朝寝坊で時間を無駄に費やすことは、自分のためにも、周りの人のためにもなりません。

最近は、それほどでもなくなりましたが、一時期、日本国内においても、欧米のように、労働時間を短縮して、自分の時間を楽しもうとの風潮が高まりました。

高度経済成長期の、一心不乱に働き、国のため、家族のため、身を粉にして働くことが格好悪く、個人を重視し、個人の時間を確保しようとする風潮でした。

しかし、結果として、そのような風潮は日本の国力を落とし、国際競争力を低下することとなってしましました。

多くの人は、人生の中で働いている時間が一番長いといえます。その仕事に生きがいを見つけ、一心不乱に働くことは、自分のため、家族のため、国のためを含め、周りまで良い影響を与えるのです。

逆に言うと、一心不乱に集中できる仕事を見つけられた人は幸せだと思います。自分のため、周りの人たちのため、一生懸命働きたいと思います。

2011年6月3日金曜日

薩摩いろは歌 う

 「憂かりける今の身こそはさきの世のおもえばいまぞ後の世ならむ」

「周囲の人がつれなく対応するのは、前世の行いの報いである。後世の姿は現世の行いの報いである。」

現在の、周囲のつれないそぶりは、前世での行いが悪かったからであります。後世にどのような待遇にあるかは、今現在の現世の行いで決まります。

世の中は、常に因果応報のもとで動いています。善い行いをすれば、善い結果が得られ、悪い行いをすれば、悪い結果が得られます。

将来、自分に善い結果をもたらしたいと思うのであれば、今現在を真面目に清く正しく過ごしなさい。そうすれば、将来の自分に善い結果が得られるはずです。

因果応報は仏教の思想ですが、結果には必ず原因があり、結果は全て原因によるものであるとの考え方です。

この考え方に則れば、善い行いをした人には善い結果が、悪い行いをした人には悪い結果がもたらされるというものです。

この考え方は本当でしょうか?短いスパンで考えると、必ずしもこのようにはなっていないようですが、長いスパンで考えると、この考えは正しいといえるようです。

人間の寿命は、高々100年程度ですが、200年、300年という長いスパンで考えると、必ず善い行いをした人には善い結果が、悪い行いをした人には悪い結果がもたらされるそうです。

この歌の中でも、前世、現世、後世という、長いスパンで考えられています。後世を善く過ごすために、現世では清く正しく生きていきたいと思います。

2011年6月1日水曜日

薩摩いろは歌 む

「昔より道ならずしておごる身の天のせめにしあはざるはなし」

「昔から人としての道を踏み外し、おごり高ぶった人に天罰が下らないことはない。」

昔から、人としての正道を踏み外し、おごり高ぶった態度をとるような人に対しては、必ず天罰が下ってきていました。

人は一度成功を収め、富や名声を手に入れるとおごり高ぶった態度をとってしまいがちです。しかし、神様仏様はそのような態度を見過ごすことなく、天罰を加え、おごり高ぶった人を諭します。

人間はどんなに偉くなっても、成功しても謙虚さを忘れてはいけません。謙虚さを忘れた途端、物事はうまくいかなくなってしまいます。

一度成功し、偉くなっても謙虚さを失わず、継続して努力を続けるものに神様仏様は手を貸し、成功を継続させてくれるのです。

人間としての正道を踏み外し、おごり高ぶれば必ず失敗が訪れるから、成功し富や名声を手に入れても謙虚さを失わずに研鑽しなさいということを端的に表しています。

2011年5月30日月曜日

薩摩いろは歌 ら

「楽も苦も時すぎぬれば跡もなし世に残る名をただ思ふべし」

「楽しいことや苦しいことも時間がたてば何も残らない。ただ後世に名を残すことを考えよ」

楽しいこと、苦しいことなど、刹那的なことに一喜一憂するのではなく、長いスパンで物事を考え、後世の人たちにも良いと思われることを実行しなさいということを表していると思います。

ここでいう「世に残る名」とは、ただ単に名声を得るために頑張りなさいということを言っているのではなく、後の世の人から見ても正義を貫いた、あるいは誠を尽くしたといわれるように、正しく振る舞いなさいということであります。

とかく人は、目の前の事象にのみ目を奪われがちで、大局的判断を見失うことが多々あります。しかし、もっと高い見地から物事を判断し、長いスパンで考えたときに何が正しいかを判断基準にして、行動することが重要です。

しかし、人間はその時々の楽しいこと、苦しいことで、思考が支配されやすく、容易には将来のことまで思いを馳せることが出来ません。

この歌に書かれていることを実行するためには、常日頃から正しい判断を行えるように訓練する必要があると思います。これもまた、日々の努力が必要です。

2011年5月27日金曜日

薩摩いろは歌 な

 「名を今に残しおきける人も人心も心何かおとらん」

「後世に名を残すような立派人も、同じ人間である。名を残すような立派な人の心も、我々と同じ心である。何か劣っているところがあるであろうか?」

後世に名を残すような立派な人であっても、同じ人間なのです。その心もまた我々と同じ心なのです。同じ人間、心を持つのであれば、努力すれば、同じように立派になれるはずであります。

世の中の立派な人をみると、自分とは全く違う世界の、全く異なる人種のように感じてしまいます。しかし、所詮、人は人なのです。

立派な人も、多くの努力のおかげで立派になったのであり、何もしないで立派になったのではありません。

人は皆、平等なので、立派になるための努力を惜しまず、弛まぬ努力を続ければ、皆立派な人になれるのだということを説いています。

人は立派な人の前では、卑屈になり、自分とは違うと思いがちです。しかし、同じ人なのだから、立派な人の良い所をまね、努力すれば皆立派になれるのです。私も努力を続け、少しでも立派な人に近づきたいと思います。

2011年5月25日水曜日

薩摩いろは歌 ね

「ねがわずば隔てもあらじいつわりの世にまことある伊勢の神垣」

「変なことを願わなければ、分け隔てなく公平に願いは叶えられる。例え偽りの多い世の中であっても伊勢神宮は誠の神様である。」

邪な考えで願い事を祈りをせず、純粋な気持ちで祈り事をすれば、願い事は叶います。偽りの多い世の中であっても、神様仏様は全てをお見通しだからです。

純粋に世のため、他人のためを思って祈る願い事に対しては、神様仏様は公平に願い事をかなえてくれるが、私利私欲に満ち、邪な悪いことを思って祈る願い事には、それ相応の報いがあります。

例え、自分の心の中だけで思っているだけでも、神様仏様は全てを見通せるので、その悪さと同等の報いを与えるでしょう。

人は常に清き正しい気持ちでいることが重要です。美しき心を持った人には良いことが、悪しき心を持った人には悪いことが起きるようになっています。常日頃から清き心を持てるように心掛けたいものです。

2011年5月23日月曜日

薩摩いろは歌 つ

 「つらしとて恨みかへすな我れ人に報ひ報ひてはてしなき世ぞ」

「相手の仕打ちが辛いからと言って、恨み返してはいけない。恨みは恨みを生んで、果てしなく続くことになる。」

相手のひどい仕打ちに対して、恨みで返してはいけません。恨みは新たな恨みを生み、恨みは果てしなく続いていきます。

相手のひどい仕打ちに対しては寛容の心で対処することが重要です。多くの戦争は恨みによる報復合戦により激化していきます。

恨みに対する報復は、恨みでしか返ってきません。どこかでこの負の連鎖を断ち切る必要があります。一度の寛容が、負の連鎖を断ち切ることが出来るのです。

相手はこちらの寛容な態度に対し、態度を軟化させ、対話へと発展できるのです。恨みは恨みしか生みません。寛容で断ち切る必要があるのです。

しかし、実際問題として、これはなかなかできることではありません。世界中の戦争が無くならないのが、その証拠です。

人は他人事だと、他人のひどい仕打ちに対しても寛容になるべきだといいますが、自分に利害が絡むとなかなか寛容になれません。

自分自身の問題であっても、自分をコントロールし、如何に第三者的(客観的)視点で物事を考えられるかがポイントだと思います。

2011年5月20日金曜日

薩摩いろは歌 そ

 「そしるにもふたつあるべし大方は主人のものになるものと知れ」

「臣下が主人に対して悪口を言うのにも、2種類ある。多くの場合主人のためを思って言っているこをわかりなさい。」

主人に対して臣下が悪口を言う場合、主人を思っていう場合と、自分の不平不満から言う場合の2種類があります。しかし、多くの場合、主人を思って言っているのだから、良く聞き入れて自分を反省しなさいと諭しています。

自分の耳が痛い話は、誰しもが聞きたくないものです。ましてや、自分の悪口など聞きたくもないものです。

しかし、部下があえて悪口を言う場合は、多くの場合、主人を思ってのことなので、耳を塞がず、ことの真偽を見極めて対応することが重要です。

臣下の不平不満からでた悪口に対しては、臣下を諌め、主人を思って言った悪口に対しては良く耳を傾けて反省すべきです。

わかっていてもなかなかできないことですが、常に頭の片隅において配慮したい内容です。

2011年5月18日水曜日

薩摩いろは歌 れ

 「礼するは人にするかは人をまたさぐるは人をさぐるものかは」

「人を敬うということは、他人を敬うことだろうか?人を卑しめるということは他人を卑しめることだろうか?」

人に対して礼を尽くすということは、他人に対して礼を尽くすとともに、自分自身に礼を尽くしているのです。また、人を卑しめるような態度は、他人を卑しめているのではなく、自分自身を卑しめているのです。

人に対して礼を尽くすという正しい行いを実践していれば、それは自分自身を正しく導き、自分自身に礼を尽くすことになります。

一方、慢心し、他人を卑しめるような態度をとっていれば、いつかは、巡り巡って自分を卑しめることになるのです。

人は常に、他人に対して礼を尽くし、他人を卑しめるような態度をとってはいけないという戒めです。人を敬い、天を敬い、己を制御することが重要なのだと思います。

2011年5月16日月曜日

薩摩いろは歌 た

「種となる心の水にまかせずば道より外に名も流れまじ」

「悪い噂の種となる私利私欲に塗れた行いをしなければ、悪いうわさも流れないだろう。」

私利私欲に従って悪いことをするから、道を誤り悪いうわさも流れるのです。始めから正しい心で良いことをすれば、悪いうわさなど立つはずがないのです。

悪事千里を走るというように、悪いことをすればそのうわさはあっという間に遠くまで伝わります。しかし、始めから人として正しい行いをしていれば、悪いうわさなど立たないのです。

特に権力を持つ人が政治を行う場合、その行いが私利私欲に立脚していれば、その悪政はすぐにうわさとなってしまいます。

権力者の立ち居振る舞いは、常に人として何が正しいかをベースに潔白でなければなりません。これは、企業が事業を行う場合にも相通じるものがあります。

ただ単にお金を儲けるために事業を行っている企業は、いつかは淘汰されていきます。逆に、常に消費者、お客様のことを考え事業行っている企業は、業績を伸ばし続けていっています。

私の会社まだまだ小さく世の中に大きく貢献することはできませんが、常に世のため人のためという視点で事業を続けていきたいと考えています。

2011年5月13日金曜日

薩摩いろは歌 よ

「善きあしき人の上にて身を磨け友はかがみとなるものぞかし」

「周りの行いの善い人、悪い人を見て、自分の徳を磨きなさい。友は自分の行いの鏡となる。」

とかく人間は自分の行いの善し悪しはわかりにくいものであります。しかし、他人の行いの善し悪しには敏感に反応します。

自分の友人の行いの善し悪しを参考に、自分の行いを見直しなさいとの教えです。まさに他人の振り見て我が振り直せです。

周りの人の悪い振る舞いには、すぐに気付き、腹を立て易いですが、自分が似たような振る舞いをしていることには、なかなか気付かないものです。

周りの不快な振る舞いを見たときには、腹を立てる前に、自分の行動を見直す習慣を作りたいと思います。

逆に、周りの善い行いに感心することはあっても、それを実行するに至らないことも多いと思います。善い行いをみたら、それを参考に、自分自身でも実行するように心掛けたいものです。

2011年5月11日水曜日

薩摩いろは歌 か

「学文はあしたの潮のひるまにもなみのよるこそなほしずかなれ」

「学問は朝も昼も継続して行うべきであるが、静かな夜はなお適している。」

学問は昼夜を問わず、間断なく続けるべきであるが、静かな夜はなお良いとしています。最近では生涯学習という言葉もある通り、人間は死ぬまで毎日が勉強の連続であります。

生涯学ぶべきことは多く、毎日勉強しても勉強しつくすことはありません。とかく人間は怠け心が顔をだし、サボろうサボろうとしてしまいます。

しかし、人間が学ぶべき内容を考えれば、怠ける暇などないはずなのです。昼夜を問わず、勉強に勤しんでも学びきれないことがたくさんあるのです。

このように考えれば、怠け心が頭をもたげてきても、怠け心を抑制して、勉学に励むことができるのであはないでしょうか?

以前にも少し書いたかと思いますが、努力は人を裏切らないといいます。努力したら努力した分だけ、自分にご褒美がもらえます。

学べば学ぶほど充実した人生を送ることができます。勉強し続けることは難しいですが、怠け心を少しでも抑制して勉学に励みたいと思います。

2011年5月9日月曜日

薩摩いろは歌 わ

 「私を捨てて君にし向はねばうらみも起り述懐もあり」

「私を捨てて、君主に仕えなければ、うらみも起こり、不平不満も出る。」

一切の私心を捨てて、君主のために身を捧げるつもりで仕えなければ、君主や組織に対して恨む心や不平不満の心が出てきてしまうのです。

君主のため、組織のためと私心を捨て去れば、全てが公のためであり、皆のために働くので、恨み言や不平不満は出てこないはずであります。

似たような言葉に滅私奉公という言葉があります。私を滅し、公のために身を捧げる、滅私奉公は、この歌と同じ意味です。

何事も、自分自身のためだけに働くと、物事はうまく運びません。自分自身のためではなく、世のため人のために働くと、自然と物事はうまく動き出します。

私を捨てて、公のために働いていれば、いつしか、自分自身も幸せになっているものです。中々難しい行いですが、常に心にとどめておきたい歌です。

2011年5月6日金曜日

薩摩いろは歌 を

 「小車のわが悪業にひかれてやつとむる道をうしと見るらむ」

「自分自身の怠け心など悪い心に押し流されるから、自分の行うべき仕事が辛く感じるのである。」

小人(つまらない人、器の小さい人)が自分の仕事を辛く感じるのは、自分自身の心に原因があるのです。本来は楽しいはずの自分の仕事も、つまらない仕事だと思えばこそ、辛く感じるのです。

本来、どんな小さな仕事であっても、意味があるのです。その仕事を行う人がいなくなれば、周りに困る人がいるのです。

自分の仕事に誇りをもっていれば、たとえどんなにつまらなく見える仕事であっても、やりがいを感じて楽しく仕事をできるのです。

自分の仕事がつまらなく、やりがいのない仕事だと嘆く前に、まずは、目の前の自分の仕事をコツコツと確実に実行していくことが重要なのです。仕事を確実にこなしていけば、いつかは、大きな結果を残すことになります。

目先のことばかりを考えず、長いスパンで将来を見据え、目の前の仕事の意味を考える必要があると思います。

2011年4月27日水曜日

薩摩いろは歌 る

 「流通すと貴人や君が物語りはじめて聞ける顔もちぞよき」

「目上の人が自分に話を聞かせるときは、その話を知っていても、初めて聞いたような顔で聞いた方が良い。」

目上の人が、自分のことを思って、色々話を聞かせてくれるときは、その話の内容を知っていても、あたかも、初めて聞いたような顔で聞いた方が、自分のためであることを教えています。

決して、その話は知っていると、口に出して言ったり、顔に出してはいけないことを戒めています。目上の人には一日の長があります。

色々な話を聞かせてくれるのは、自分のことを思ってのことであります。例え、聞かせてくれた話が、自分の知っている内容であっても、初めて聞くように真剣に聞くことが重要です。

目上の人は、何らかの目的を持って、あえて知っている話を聞かせてくれるときがあります。そのようなとき、その話は知っていますとか、あからさまに、そんな話は知っていますというような顔つきで聞いていると、それから後、目上の人は重要な話を聞かせてくれなくなるかもしれません。

目上の人を尊敬するのは、儒教の教えが取り入れられているのだと思います。先人の知恵は、奥深いものが多いものです。

目上の人の話は、真摯に受け止め、表面だけの知識でしたり顔をするのは、自分のためにならないことを肝に銘じたいものです。

2011年4月25日月曜日

薩摩いろは歌 ぬ

 「ぬす人はよそより入ると思うかや耳目の門に戸ざしよくせよ」

「盗人は外から入ってくると思いがちだが、真の盗人は、自分の耳や目を通して入ってきて、心を盗むものである。耳目(心)の戸締りをしっかりしなさい。」

泥棒は物理的に家の中に入ってきてものを盗むと考えますが、真の泥棒とは、様々な誘惑で心を盗むものであるという、深い教えです。

世の中の様々な誘惑によって、心を奪われないようにということをうまく表現しています。最終的には、世の中の多くの誘惑に負けないように、心の鍛錬を行いなさいという教えになっています。

世の中で生活し、物事がうまくいき始めると、自由になるお金も増えていきます。生活レベルも向上し、周りからの魅力的な誘惑も増えていきます。

このような、誘惑に心奪われて、散在していくと、身ぐるみはがされ何も残らなくなってしまいます。どんなに裕福になっても誘惑に打ち勝つ強い心を身に着けたいものです。

2011年4月22日金曜日

薩摩いろは歌 り

「理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき心の駒の行くにまかすな」

「道理も通らず、法も守られない世の中だからと言って、安易に自分の欲求のままに行動を起こしてはならない。」

道理も通らず、法も守られないような乱世にあっても、自分自身は身を潔白にし、世の中と同じように、易きに流れやすい人間の欲望のままに行動してはいけません。

とかく乱世では、人間の理性よりも欲望が打ち勝ち、道理も通らなければ、法も守られない、無法状態になってしまいがちです。

だからといって、自分自身も同様に欲望のままに行動してはいけないことを戒めています。人間は、どんな世の中であっても、自分の良心に従い行動すべきで、安易に自分の欲望に任せてはいけないということを端的に表しています。

上記は、戦国時代のような乱世を考えて作られた歌だと思いますが、バブル期にも、相通じるものがあると思います。

当時は、濡れ手で粟のように、株や土地で資産を増やすことができました。しかし、安易に資産を膨らますことに注力し続けたことで、バブル崩壊期には大きな損害を抱える人が多く発生しました。

楽してお金を稼ごうという、欲望に負けず、額に汗して、コツコツ働いていた人にとっては、バブルの崩壊も関係ありませんでした。

常に何が正しいかを判断基準にて、清く正しく行動していきたいと思います。

2011年4月20日水曜日

薩摩いろは歌 ち

「知恵能は身につきぬれど荷にならず人はおもんじはずるものなり」

「知恵や芸能は身に着けても荷物のように邪魔になるよなものではない。知恵や芸能を多く身に着けた人のことを、世の中の人は尊敬し、かつ、自分のことを恥ずかしく思うものである。」

勉強や芸事に励み、技術を多く身に着けても、荷物のように邪魔になるものではありません。芸は身を助くとも言うとおり、技術を身に着けることにより、自分自身を高めることができます。

さらに、勉強や芸事に励み、技術を身に着けた人を見て、、世の中の人は、技術を身に着けた人を尊敬し、また、自分の未熟さを恥じ入ります。そして、同様に勉強や芸事に励み技術を身に着けることになります。

一人の努力家が、周りにも影響を与えて、切磋琢磨するという、好循環を生み出すことを端的に表しています。

努力は決して裏切らないとも言います。日々精進し、技術を身につければ、周りの人からの尊敬も集められ、さらには自分自身が成長できるのです。自分自身、肝に銘じて頑張りたいと思います。

2011年4月18日月曜日

薩摩いろは歌 と

「科ありて人をきるとも軽くすないかす刀もただ一つなり」

「罪を犯した人を切るときも、軽々しく切ってはいけない。罪人を生かすも殺すも、君主次第である。」

罪を犯したからと言って、軽々しく死刑を実行してはいけません。罪人の状況を良く理解して、大きな心で許すことも、あるいは、あまりにもひどい振る舞いを断罪して死刑を実行するのも、君主の心ひとつで決まります。

人は過ちを犯してしまうことがあります。その過ちは、ほんの出来心で犯した過ちか、極悪非道の心で犯した過ちかで、対処の方法は変わるはずです。

一度の過ちだけで断罪しては、人は育ちません。罪を犯した背景まで良く吟味した上で判断し、刑の重さを決める必要があると思います。

人は恩に対しては、誠で応答してくれます。人を育てる上では、罰ばかりでは駄目だと思います。大きな心で許すことも必要です。

万が一、恩を仇で返すような人物であれば、その時断罪すればよいと思います。権力を持つ者は常に思慮深く、判断しなければならないことを端的に表していると思います。

2011年4月15日金曜日

薩摩いろは歌 へ

 「下手ぞとて我とゆるすな稽古だにつもればちりも山とことの葉」

「下手だからといって、努力することを怠ってはいけない。稽古を積めば誰でも上達する。ちりも積もれば山となるということわざもあるではないか。」

とかく人は苦手なものから逃げ出したいと思ってしまいます。しかし、苦手だからといって、努力を怠ってしまえば、絶対に上達はしません。

日々稽古をすれば、少しずつでも上達していくのです。そして、いつかはちりが積もって山となるように、その道の達人になれるのです。

私は、前の会社で材料開発という、ちょっと変わった仕事をしていました。様々な粉末を混合して、新たな材料を開発していました。

ITに関していえば、全く知識がありませんでした。ウェブサイトがどのようにして作られているかも知りませんでした。

しかし、会社を辞めて、毎日HTMLやCSSについて勉強しました。IT関連の仕事を始めるには、まだまだ十分な知識ではありませんが、以前の私からすれば、大分成長したと思います。

私は42歳で、前の会社を辞めましたが、84歳まで生きれば、あと42年あると考えました。42年間一生懸命頑張れば、一つのことを成し遂げられると思っています。

これからも、新しいことにチャレンジして、努力を積み重ね、いつかは大きな山を築きたいと思います。

2011年4月13日水曜日

薩摩いろは歌 ほ

「ほとけ神他にましまさず人よりも心に恥ぢよ天地よく知る」

「仏様や神様は他にいるのではない。心の中にいるのです。他人に対して恥じるのではなく、自分の心(良心)に恥じなさい。天地神仏は全てを知っているのです。」

自分の恥ずかしい振る舞いは、他人が見ているから恥ずかしいのではありません。自分の良心に照らし合わせて判断しなさい。神様仏様は自分の心の中にいて、全てお見通しなのだから。

とかく人は周りの目を気にして、事の善悪を判断しがちであります。しかし、何が善なのかは、周りの人が決めるのではありません。人として何が正しいか、自分の良心に従って判断するものであります。

自分の悪い振る舞いを周りの人が見ていないからと言って、正当化するのは間違っています。自分の悪い振る舞いは、自分が良くわかっているはずです。自分の良心を判断基準にしましょう。

物事の善悪を判断するときに、自分の良心を基準にするのですが、自分だけの判断では、自分に甘い判断をしてしまう可能性があります。

この時考えなければならないのは、その判断は自分のために行ったか、周りの人のためを思って判断したかで、良心に基づいたか、エゴに基づいたかがわかると思います。

他人に優しく、自分に厳しい人間でありたいと思います。

2011年4月11日月曜日

薩摩いろは歌 に

 「似たるこそ友としよけれ交らばわれにます人おとなしき人」

「友を選ぶときは、似たような人を選びがちだが、自分を向上させるなら、自分より優れた人と交友を持つ方が良い。」

昔から「類は友を呼ぶ」というように、似た者同士は友達になりやすいものです。また、自ずと自分と同じレベルの人たちが集まりやすい傾向があるようです。

しかし、私の経験からも、人は友人の影響を受けやすいものです。逆に言うと、自分よりレベルの高い人と付き合うと、周りの友人が自分のレベルを引き上げてくれます。

悪い友達と付き合うと、自分もどんどん転げ落ちていきます。どうせ付き合うなら、自分よりちょっとレベルの高い人を選んだ方が良いです。

あまりにも、レベルが違いすぎると、話についていけない上、自分が駄目な人間のように思え、卑屈になってしまいます。

自分よりちょっとレベルが上の人と付き合い、自分のレベルが上がったら、また新たに、レベルの高い友人を作る。この繰り返しにより、自分のレベルが上がっていきます。

しかし、自分のことばかりを考えていてはいけません。自分が周りの人に引き上げてもらったように、自分も周りの人を引き上げることを忘れてはいけません。

人には、得意分野不得意分野があります。同じ友人でも、自分よりレベルの高い分野と低い分野を持っています。それぞれを補ってもよいですし、全く違う友人を引き上げてもよいです。

人は常に持ちつ持たれつの関係で、自分だけが得しようという考えは身の破滅を導きます。良い友人を持って、自分のレベルを上げるとともに、周りへの気配りも忘れないようにしたいものです。

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